想像力を欠如したデザインの成れの果て
日本産ソフトやアプリのUIと聞いて連想するのはまさにコレである。
日本庭園や浮世絵、茶の湯を引くまでもなく、日本人のDNAには引き算の美意識が脈々とながれているはずである。
20代でデザインをやっていた時は、毎年パリの展示会にそそくさと参加し、各国から来ているデザイナーに紛れて、我が身を削り、無い金を搾り出して作ったサンプルを展示していたのですが、バイヤー獲得以上に、周りのデザイナー諸氏との交流が毎度刺激的で、それが味わいたくて無い袖を振りながら参加していたところがある。
で、日本人として強く感じたのは、自分のデザインは完全に引き算で、彼らの殆どは足し算で考えてるというという事だ。特に装飾に強くこだわり、隙間を埋めようとする。(厳密にはデザインと装飾(デコレーション)は違う)
逆に日本人は削ぎ落とした上で、素材の良さや質感にこだわり、そこに精神性を見いだそうとする。正に鮨である。
また、漫画や浮世絵を参照するまでもなく、日本人は抽象化が凄く上手い。
日頃日本で無意識にやっている事が、外と比べる事でその違いが火を見るがごとく実感出来、このセンスこそが世界でやる上で強みになると強く実感した体験である。
それが、ITの世界ではどうであろうか?
ゴテゴテした、説明過多の痴呆デザインが溢れかえり、元ヒッピーで西洋的禅導師たるジョブズに日本的なコンセプトで完全に追い越され、追い付くにはもはや不可能なくらい世界に離されている。
日本を離れて早10年。
アジアを中心に色々な国を訪れたけど、日本の格差など誤差である。
田舎の爺ちゃん婆あちゃんは、文字もまともに読めなかったり、簡単な算数も出来なかったりするんだけど、スマホは結構持っていて、YouTubeやFacebook、WhatsApp なんかは普通に使っている。これこそユニバーサルデザインである。
どんな阿呆から大統領、独裁者まで等しく使えるUIなのである。
iphoneの様にボタンが1個なら、そこを押すしかないのだ。
つまり、哲学として、年齢国籍関係なく、一目で分かるUIというコンセプトがある。
日本の場合は、そうではなく、阿呆にも分からそうとくどくど説明する のである。 で、冒頭のコーヒーメーカーマシーンUIの出来上がりである。
ある意味、消費者を見下したデザインだ。
誠実なモノを作ろうと思えば、愚かな意見は聞いてはいけない。
多分、日本のデザイナーも、引き算の美学でシンプルにしようとしているんだけど、老害上司や阿呆クライアントと会議を重ねる上で、老人にも分かりやすく、もっと説明付けたほうが良いよ とか、うちのクライアントが満足する様にこういう欲張り機能も付けた方が良いよとか、広告収入や後々のマーケも見込んで、ユーザー登録する時にアンケートとか、各種チェックボックスをつけた方が良いよとか、もっとセキュリティを高める為に認証プロセスを増やした方が良いよとか、クレーム来ないように利用規約とかクレーマー対策をモリモリに盛り込んだ方が良いよ みたいな感じで、ゴミが出来ていくんだろうなと。
何故、鮨の様に、白米の上に鮮魚が載っただけ みたいな崇高性すら感じさせるプロダクトが作れないのか。
デザインとは、外見の装飾の事ではなく、形や機能による問題解決の事である。
少子高齢化で、老害、痴呆コンサルが幅をきかせ、DXやユニバーサルデザイン、SDGs等の実態の無い軽い言葉がヘリウム風船の如く飛び交っている昨今。
誠実なモノを作ろうと思えば、愚かな意見は聞いてはいけない。
老害は、何かを言えばまだ自分は新しいものが理解出来てるという勘違いや慰めの為に、意見の為の意見を言っているだけで、そこに何か重要なものは無い。
阿呆コンサルも殆どは思い付きで、屁理屈で武装した、泥団子の様な自分の案に酔っているだけである。
真に新しいものって、最初は理解されない。若い世代を除いてね。
- 140文字しか文章打てないサービス
- 明日になると送った画像やメッセージが消えるサービス
- 素人が撮影するどうでも良い様な短い動画を投稿出来るサービス
- 動画に便所の落書きの様なコメントを勢いよくつけれるサービス
こういったアイデアは良識のある立派な大人達が集まった会議では、一笑に付されるであろう。
そういう世間の空気を読まない陰鬱礼賛の魂を持ったデザインが日本から生まれて欲しいと思つてゐます。
現在2022年。この日から世界がどう変わって来たかを見てきた上で、再度これを見ると、まさに世界が変わった日。だった。
Stay Hungry Stay Foolish.