はじめに
アドベントカレンダー参加しました。
特に最新のアルゴリズムだとかコードを書いたりとかもなく、超基礎的な内容で大変恐縮ですが、3日目なのでお許しを~
量子コンピューターの勉強をしていて、No-cloning theorem (複製不可能定理) が衝撃を受けたので、量子状態の複製について調べた内容をこの記事に整理してみようと思います。
準備
この記事では、(複素)ヒルベルト空間 $H$ に対して内積 $\langle\cdot,\cdot\rangle_H$ は左線型右反線型とします。
また、内積が誘導するノルムを $\|\cdot\|_H$ で表します。
特に混乱の恐れのないときは、これらの添え字を省略します。
定義 1 (テンソル積ヒルベルト空間). ヒルベルト空間 $H_1$, $H_2$ に対し, ベクトル空間
H_1\,\tilde{\otimes}\,H_2:=\left\{\sum_{j=1}^n a_j (x_j\otimes y_j) : n\in\mathbb{N}, a_j\in\mathbb{C},x_j\in H_1,y_j\in H_2,j=1,\dots,n \right\}
とする. $H_1,\tilde{\otimes},H_2$ に内積
\left\langle \sum_{i=1}^n a_i (x_i\otimes y_i), \sum_{j=1}^m b_j (\xi_j\otimes \eta_j)\right\rangle := \sum_{\substack{1\leq i\leq n \\ 1\leq j\leq m}} a_i\overline{b_j}\langle x_i,\xi_j\rangle_{H_1} \langle y_i,\eta_j \rangle_{H_2}
を定め, この内積が誘導する位相のもとでの $H_1,\tilde{\otimes},H_2$ の完備化をテンソル積ヒルベルト空間と呼び, $H_1\otimes H_2$ とかく.
次に、複製不可能性のために、複製作用素を定義します。
量子コンピューターを考えるときの複製のイメージは、ある量子ビットの状態をもう1つの量子ビットにコピーすることです。
複製不可能定理を調べていて、複製あるいはコピーが何なのか定義されているものを見つけることができなかったので、文脈から私が勝手に解釈した定義を与えます。
定義 2 (複製作用素). $H$ をヒルベルト空間, $y\in H\setminus \{0\}$ とする. $H\otimes H$ 上の線型作用素 $U$ が次の(i), (ii)を満たすとき, $y$ に対する $H\otimes H$ 上の複製作用素であるという.
(i) $U$ はユニタリー作用素である.
(ii) 任意の $x\in H$, $\Vert x \Vert=\Vert y \Vert$ に対して, $U(x\otimes y) = x\otimes x$ である.
注意. 上の定義 (ii) は
(ii)' 任意の $x,y\in H$, $\Vert x \Vert=\Vert y \Vert$ に対して, $U(x\otimes y)=x\otimes x$である.
でいいのでは?と思うかもしれません。
このとき、$x,y\in H$, $x\neq y$ に対し、$U(x\otimes y)=U(x\otimes x)=x\otimes x$ となります。
しかし、$U$ はユニタリーであり、したがって単射であることに反するため、定義できません。
そのため、Wikipediaの英語版から読み取れる定義は、
定義 3 (複製作用素). $H$ をヒルベルト空間とする. $H\otimes H$ 上の線型作用素 $U$ が次の(i), (ii)''を満たすとき, $H\otimes H$ 上の複製作用素であるという.
(i) $U$ はユニタリー作用素である.
(ii)'' 任意の $x,y\in H$, $\Vert x \Vert=\Vert y \Vert$ に対して, ある $\alpha\in\mathbb{C}$ が存在して, $U(x\otimes y)=e^{i\alpha}(x\otimes x)$である.
としているようです。
調べた限りでは、この定義を採用しているのはWikipedia英語版記事以外見つけることができませんでした。
本記事では、複製作用素の定義としては定義 2 を採用することにします。
また、複製がコピー元の状態に依存することを許す場合の複製も定義しておきます。
ここでは準複製作用素とでも呼んでおきましょう。
一般的な用語では(多分)ないです。
定義 4 (準複製作用素). $H$ をヒルベルト空間, $x,y\in H$, $\Vert x \Vert=\Vert y \Vert$ とする. $H\otimes H$ 上のユニタリー作用素 $U$ が $$U(x\otimes y)=(x\otimes x)$$ を満たすとき, 組 $(x,y)$ に関する $H\otimes H$ 上の準複製作用素であるという.
さて、準備も整いましたので、次から定理の主張と証明を紹介したいと思います。
複製不可能定理
コピー禁止定理ともいうそうです。
以下では $H$ をヒルベルト空間とします。
定理の主張は簡単で、次のものです。
定理 1. すべての $y\in H\setminus \{0\}$ に対し, $y$ に対する $H\otimes H$ 上の複製作用素は存在しない.
証明は非常に簡単なのですが、ここでは証明のアイデアはそのままに少し変えました。
下の注意で述べるように、一般性の面からもこちらの方が妥当と思います。
証明. $y\in H\setminus \{0\}$ に対する複製作用素 $U$ が存在すると仮定する. $\Vert y\Vert=1$ としてよい. $x=-y$ とおくと,
\begin{align*}
-1
&= \langle x\otimes y, y\otimes y\rangle \\[.2em]
&= \langle U(x\otimes y), U(y\otimes y) \rangle \\[.2em]
&= \langle x\otimes x, y\otimes y \rangle \\[.2em]
&= 1
\end{align*}
となり, 矛盾である. □
注意. Nielsen et al. [4]では、$\langle y,y_{\perp}\rangle=0$ として、$x=(y+y_{\perp})/\sqrt{2}$ を例示しています。
しかし、$0$ 以外の $y_{\perp}\in H$, $\|y\|=1$ を取るためには、$\dim H\geq 2$ である必要があります。
もちろん量子コンピューターの文脈ではこの条件は満たされています。
ここまでは、未知の状態も含めたすべての状態を別の量子ビット上にコピーできるのかどうかを考えていました。
では、既知の状態だけだったら?
この場合は、コピーする回路を構成することができます。
実際、$x_0,y_0\in H$ に対し、$U_0y_0=x_0$ を満たす $H$ 上のユニタリー作用素 $U_0$ を取り、$I$ を $H$ 上の恒等作用素, $P_0$ を $x_0$ の張る閉部分空間への射影, $U_1$ を $H$ 上のユニタリー作用素として, $U=P_0\otimes U_0 + (I-P_0)\otimes U_1$ とおくと、$U(x_0\otimes y_0)=x_0\otimes x_0$ が成り立つ、つまり、組 $(x_0,y_0)$ に関する準複製作用素が存在することが分かります。
今の場合はある1つの既知の状態に関するものだったのですが、次の節では複数の既知の状態をコピーする回路を作ることができるのかについて考察します。
既知状態の複製可能性
ヒルベルト空間 $H$ とします。
今、2つの状態 $x_1,x_2\in H$ をある状態 $y\in H$ の上にコピーできる準複製作用素 $U$ が存在するとすると、
\begin{align*}
\langle x_1,x_2 \rangle_{H}
&= \langle x_1\otimes y, x_2\otimes y \rangle_{H\otimes H} \\
&= \langle U(x_1\otimes y), U(x_2\otimes y) \rangle_{H\otimes H} \\
&= \langle x_1\otimes x_1, x_2\otimes x_2 \rangle_{H\otimes H} \\
&= ( \langle x_1, x_2 \rangle_{H} )^2
\end{align*}
より、$\langle x_1, x_2 \rangle_H=0,1$ が得られます。
以上から、複数の既知の状態をコピーするには、それらは同じ状態であるか、または互いに直交するものでないといけないことが分かります。
より詳しくは次の定理のように述べることができます。
定理 2. $\{x_n\}_n \subset H$ は 各 $n$ に対して $\|x_n\|=1$ で, $x_i\neq x_j~(i\neq j)$ とする. また, $y\in H$ は $\|y\|=1$ とする. このとき, 次の条件 (i), (ii) は同値である.
(i) $\{x_n\}_n$ は正規直交系である.
(ii) $H\otimes H$ 上のユニタリー作用素で, すべての $n$ に対して組 $(x_n,y)$ に関する準複製作用素であるものが存在する.
証明. 上の議論より, (ii) $\Rightarrow$ (i) が分かる. よって (i) $\Rightarrow$ (ii) を示す.
正規直交系 $\{x_n\}_n$ に対し, $\{x_n\}$ を含む完全正規直交系を $\{e_n\}_n$ とする. また, 各 $j$ に対し, $U_j$ を $U_jy=e_j$ となるような $H$ 上のユニタリー作用素とする. このとき, $U:=\sum_j (e_j;\hat{\otimes};e_j)\otimes U_j$ は $H\otimes H$ 上のユニタリー作用素であり, すべての $n$ に対し, $U(x_n\otimes y)=x_n\otimes x_n$ を満たす. ただし, $x,y\in H$ に対し, $x;\hat{\otimes};y$ は線型作用素 $H\ni z\mapsto \langle z,y \rangle x \in H$ を表し, $U$ の右辺は強収束の意味で定める. □
上の証明から、互いに直交する既知の状態のコピーについては、制御ゲートによって実現可能であることが分かりました。
それでは、既知の状態であっても、直交性を外した場合はどうなるのかという疑問が生じます。
もちろん上の定理 2 によって、$x_n$ のすべてをコピーする準複製作用素は存在しません。
次の節ではこの場合について紹介します。
確率的複製
前節では、ある制御ゲートによって互いに直交する複数の既知の状態をコピーできることが分かりました。
ここでは、必ずしも互いに直交ではない既知の状態のコピーについて紹介したいと思います。
$H_1$, $H_2$ をヒルベルト空間とし、$\{x_i\}_{i=1}^n\subset H_1$ が各 $i$ に対し $\|x_i\|_{H_1}=1$、$y\in H_1~(\|y\|_{H1}=1)$、$\dim H_2\geq n+1$ とします。
このとき、$\{x_i\}$ が線型独立ならば、
\begin{align*}
U(x_i\otimes y\otimes z_0) &= \sqrt{\eta}\,x_i\otimes x_i \otimes z_0 + \sum_{j=1}^n c_{ij}\xi_j\otimes z_j, \quad i=1,2,\dots, n \tag{1}
\end{align*}
となる $H_1\otimes H_1\otimes H_2$ 上のユニタリー作用素 $U$ が存在します [5, 6]。
ここで、正規直交系 $\{z_j\}_{j=0}^{n}\subset H_2$ とし、$\eta>0$、$c_{ij}\in\mathbb{C}$、$\xi_j\in H_1\otimes H_1$ です。
この操作では、$\{x_n\}$ をコピー先 $y$ へコピーしますが、アンシラ $H_2$ の状態を測定して $z_0$ が得られた場合にコピーが成功していて、コピーが成功する確率は $\eta$ です。
終わりに
ここまでお読みくださりありがとうございます。アドベントカレンダーということで、期限がある中で記事を書くというのは結構大変でした。
当初は複製不可能定理を調べていたら、no-deleting theorem、no-broadcast theorem というのもあるらしいということが分かったので、その辺も書こうかと思ったのですが、既知状態の複製可能性が面白そうに思ったので、調べたり、内容整理していたらそれで結構力尽きてしまい、ここまでの内容で一旦お終いにしました。この辺のトピックでこの記事で書けなかった内容も含めてまとめて、技術書典なんかで出すのもいいのかなあとか考えています。
今回の内容は主に [5, 6] のものですが、[6] は今回紹介した内容の他にもいろいろまとまっていて、興味のある方は読んでみたらいいかも知れません。[7-9] は調べていて見つけましたが、今後目を通してみようかなというものです。
参考文献
- https://en.wikipedia.org/wiki/No-cloning_theorem
- https://en.wikipedia.org/wiki/量子複製不可能定理
- No Cloning, Teleportation
- Nielsen, M.A. and Chuang, I.L., Quantum Computation and Quantum Information, 2010, Cambridge University Press.
- Duan, L.M. and Guo, G.C., Linearly-Independent Quantum States Can Be Cloned by a Unitary-Reduction Operation, 1999, Commun Theor Phys., 31 (2). arXiv:quant-ph/9705018
- Fan, H. et al., Quantum Cloning Machines and the Applications, 2014, Physics Reports, 544 (3), pp.241-322.
- Hardy, L. and Song, D.D., No signalling and probabilistic quantum cloning, 1999, Physical Letters A, 259 (5), pp.331-333. arXiv:quant-ph/9905024
- Jozsa, R., A stronger no-cloning theorem, 2002, arXiv:quant-ph/0204153
- Kuzyk, M.G., Quantum no-cloning theorem and entanglement, 2019, American Journal of Physics, 87, 325.