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PHP案件に配属されたGopherはどうGo言語と向き合うべきか

Last updated at Posted at 2019-12-02

今いるチームのメインリポジトリはPHPで書かれているのでそれに接する機会が多い。
インフラはガチガチのAWSだ。
普段の個人開発で使う言語はGo一択だしインフラは google app engine にのせてきた。
全然違うじゃん、と思われるかもしれないが雇用されて働く上で技術スタックを気にしてネガティブになる必要はあまりない。
新しい技術に対して前向きな意思決定ができるチームを作れるか、一緒に働きたいと思えるメンバーに恵まれているか、プロダクトは利益を上げているか、そういったことの方がボディに効きやすい。
まぁPHPでお仕事できますか?と聞かれたら当然YESだ。
PHPなんてものは特にその存在を意識しなくても読めるし書けるので勉強するに値しない言語だ。
それがLL言語の唯一の利点であるがどうにもお行儀が悪くて治安が乱れやすい。
PHPとGoどちらが優れていますかとGopherには尋ねない方が身のためだ、お前は朝食に和食と肥溜めどちらにするか聞くのか?という顔になってしまい声に出すのも億劫だとため息をつかれるだろう。

若干言葉が荒れてしまっているがややワイルドな環境で育ったのと実は今アドベントカレンダー前日だということと風邪を引いて咳と鼻水の煩わしさと戦いながら書いているというバックグラウンドを知ってもらうことで共感性をキープしていただきたい。

そういうわけでGoを布教することにはメリットしかないので業務でGoを使う機会をどうやって作っていくかというのがターゲットになる。
まずやるべきは社内の開発プロセスにおけるお役立ちツールを作ることだ。
githubで管理されているプロジェクトが100あるとしてそれらを一気にcloneするツールや複数リポジトリに渡ってローカルでgit grepなどのシェルを一括実行するツールなどを実際に作って調査に役立てている。
便利なものができたなと思ったらそれをチームに配布しておすそわけするとGoって便利だね、というのがじわじわと伝わっていく。
それと時間がない中でもできるだけ綺麗にコードを書いておくと良い。
Goはバイナリで配布できるのだがそうしていてもエンジニアはすぐコードを見せてみろと言い始めるからだ。
オラついたコードを書いてしまっていると読みにくいのはGoのせいだとアンチが湧き始めてしまう。
ここはなるべく手を抜かず学習に適した教材となるように書いておくのがベストだ。

そうして機を伺っていると、とある外部APIのバージョン対応で旧バージョンのインタフェースを新バージョンのインタフェースにプロキシしてくれ!言語は問わない!みたいな案件が降ってくることがある。
とにかく急ぎで手間をかけずにできれば安く、そしてパフォーマンスも出して欲しいみたいな要望に応えるには、サーバにバイナリをおいてデーモン起動させるだけでインフラマンたちの手を煩わせずに動かせてしまうことや、自前でWebサーバを書いてしまえること、ファイルサイズも小さく、メモリも食わないなどの特性を持つGoが狂おしいほど最適なわけだ。

こうして晴れてプロダクション環境で恐らく社内史上初のGo環境を動作させることに成功したわけだが大規模Web開発での信頼度はまだまだこれからだ。

大規模Web開発での目下のライバルはSpring Boot Kotlinだ。
コトラー達に言わせるとGoはオールドスクールだと。
ラムダ使いたいとかDI自前で書きたくないとか設定ファイルを自動で読み込んで欲しいとか、まぁ分かる。
バイナリ生成はKotlin Nativeでも出来るとかimmutable思想じゃないとか色々。
Goの思想にシンプルさを保つことで得られる恩恵が色々あるよねというのが根底にある以上、今後は使いどころが分かれていくかもしれないしGo2で破壊的にWeb寄りの実装に変化していくのかもしれないがそこらへんの議論がコミュニティで活発に行われているのもGoの力強い魅力だ。
Sprint Bootフレームワークは重たいが強力だしKotlinはScalaほどやりすぎてなくて程よくモダンなバランスの良い言語なのでPHPの256億倍マシだと思っている。

そもそもエンジニアは世界平和のために美しいプロダクトを世の中に発信したいだけなので技術スタックで争うなんて必要は全くなかったはずなのだ。
いつしか競争社会の都合で限られた時間、限られたリソース、慣習や歴史によって生まれた何かの中で生きるために望まぬ戦争をやらされているのだ。
ひたすらにスキルを研磨することも許されず銃と言論を渡され戦えと焚き付けられているのだ。
今はKotlin案件にもアサインされているので積極的にそれの利点を引き出すことを考えているが、時が来れば僕はコトラーの額に銃口を向けデヴィット・フィンチャー監督作セブンのラストシーンに出てくるブラピのような顔をしているかもしれない。

小さい頃からそう育てられたのでいざという時には引き金をひけるタイプの人間ではあるが生まれる時代を間違えたのかもなぁと思ったところでこの記事は締めようかなと。
記事を書き始めた頃は何か同志にアドバイスを送るつもりだったのだがどうにも最後の言葉が浮かばない。
時計を見ると期日が迫っている。もっと早く書いとけばなぁ、と夏休みの宿題が終わらないあの頃と何も変わらないまま日々は過ぎて行く。

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