はじめに
現在、私は2年半前からベトナム・ハノイにある小さなソフトウェア開発会社の経営をしている。経営していると言っても、手がかからないように作ったので、実際は経営者というよりはほぼエンジニア・現役プレイヤーだ。
自社の仕事だけであれば、稼働時間は週12〜16時間程度。毎日プールで泳ぎ、週3ジムでトレーナーにしごかれ、気分次第で月に数日旅行する。というような生活をしている。東京で働いていたのは10年前くらいまでだが、朝9時から終電まで、土日もどちらか出社が普通だったことを考えると、劇的な変化だと思う。どちらがハッピーかは、また別の話だ。
割と衝動的に、行き当たりばったりに築いてきたキャリアのように思われることが多いが、少なくとも直近10年くらいは、キャリアについての目標と達成のための戦略を立て、それに沿って進めてきた。
目標設定と戦略立案の元になっているのは、2冊の本だ。
- リンダ・グラットン: ワーク・シフト(原題: THE SHIFT)- 2011
- クレイトン・M・クリステンセン: イノベーション・オブ・ライフ(原題: How Will You Measure Your Life?) - 2012
同じ頃、Scrum Alliance の CSM、CSPO を取得したが、Agile なマインドセット・メソドロジーが、私のキャリア形成にパチっとハマった。なお、私の Agile の師は Cope だ。
これを、パーソナル・キャンバスというフレームで具体化して実行していった。
今回は、私のキャリア論とその実践を紹介したい。Fire に興味はない。(長文ポエム)
ワーク・シフト
2011年(日本語版は2012年)に出版された、リンダ・グラットンさんの「ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉」は、未来を形作る5つの要因
- テクノロジーの進化
- グローバル化の進展
- 人口構造の変化と長寿化
- 社会の変化
- エネルギー・環境問題の深刻化
に基づき、3つのシフト
- ゼネラリストから「連続スペシャリスト」へ
- 孤独な競争から「協力して起こすイノベーション」へ
- 大量消費から「情熱を傾けられる経験」へ
を2025年の生活を「漫然と迎える未来」と「主体的に築く未来」との対比で提唱した、衝撃的な予言書である。出版時は、日本では東日本大震災があり、多くの読者が自らのあり方を考え直すこととなった。
2025 年はもうあと半年に迫っている。
イノベーション・オブ・ライフ
2012年に出版された、クレイトン・M・クリステンセン教授の「イノベーション・オブ・ライフ: ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへ」には、キャリアや豊かな人生について様々なことが書かれているが、重要なエッセンスだけを紹介する。
取り上げるのは、以下の3つだ。
- 意図的戦略(Delibrerate strategy)
- 創発的戦略(Emergent strategy)
- 発見駆動型計画(Discovery-Driven Planning)
意図的戦略とは、事前に明確な目標を設定し、その目標に向かって計画的に行動する戦略のことで、創発的戦略とは、環境や状況の変化に柔軟に対応しながら自然発生的に形成される戦略であり、実験的アプローチや現場のフィードバックを重視し、学習と適応を繰り返す。意図的戦略は予測可能な環境での計画的な行動に適し、創発的戦略は不確実性や変化が多い環境での柔軟な対応に適している。
「衛生要因」(ステータス・報酬・職の安定・作業条件など)と「動機づけ要因」(やりがいのある仕事、他社による評価、責任、自己成長など)のどちらも満たしている仕事をしている場合は、意図的戦略を取るのがよく、そうでない場合は、創発的戦略を取ることで柔軟に対応し、リスクを軽減しながら成長と適応を図ることができる。これにより、最終的に安定した環境を整え、計画的な意図的戦略に移行する準備が整う。
発見駆動型計画(DDP)とは、戦略計画の一手法で、不確実性の高いビジネス環境において、実験と学習を重視するアプローチであり、
- 仮説ベースの計画
- 学習と検証
- 段階的な資源投入
- リスク管理
などの特徴がある。
これらのアプローチは、特に変化の激しい市場環境やイノベーションが求められる場面で有効だ。意図的戦略は確固たる計画のもとで進めるのに対し、創発的戦略や DDP は柔軟性と学習を重視する。
パーソナル・キャンバス
パーソナル・キャンバスは、自分のキャリアや人生設計を視覚的に整理するツールだ。ビジネスモデルキャンバスの個人版。価値観、強みとスキル、情熱、目標、ネットワーク、学びと成長、収入源などの要素を視覚的にまとめることで、自分の現状を把握し、将来の計画を具体化しやすくなる。
ただし、実際にやってみると、キャンバスの各要素の配置や必然性への納得感がそれほど高くない。
リーン・スタートアップのエリック・リースさん曰く、
スタートアップとは、未実現の環境で製品やサービスを提供するために生み出された人間の取り組みだ。
個々の人生は、ひとそれぞれだが、大企業のビジネスというよりは、スタートアップのようなものだ。なので、ビジネスモデル・キャンバスの個人版のパーソナル・キャンバスではなく、スタートアップ向けリーン・キャンバスを個人版にした方がしっくりくる。ということで、当時の人事部長に相談しつつ、自分自身をスタートアップと捉えたパーソナル・キャンバス(改)を作った。ベトナム語の資料しか残っていないが、これ だ。読めなくてもだいたい分かる。
最近やっていないが、弊社では「エンジニアのキャリアデザイン」講座を企業向けにやっている。興味があれば、お声がけください。
マージする
ここまで来れば、あとはシンプルだ。
- パーソナル・キャンバス(改)で、自分の現状をまとめる
- ワーク・シフトをインプットに未来の自分がどうありたいかを深く考える
- パーソナル・キャンバス(改)で、未来のありたい自分をまとめる
- 2枚のキャンバスのギャップをリストアップする
- 未来のキャンバスが嘘にならないためのアプローチを重要度や不確実性を元に優先順位をつける
- DDP で学習と検証を繰り返す
ここで、必ずしもワーク・シフトのようにシフトしたいと思わなくても良いし、必ずしもありたい未来にたどり着かなくても良い。今回の私の例では、10年といった長期スパンの計画であり、その間に10年前には想像できなかったことがいくつも出てくる。カイゼンして行けば良いのである。なお、私にとってワーク・シフトは、これ以上ないほどの説得力がある、かつてないほどの恐怖を感じた破壊的な1冊だったので、私は主体的に築く未来へと向かうことにした。
私のキャリア
- 学生ベンチャー・フリーランス: 3年 札幌、東京
- 会社勤め(入社時ベンチャー、退社時上場企業): 16年 東京、ハノイ、ホーチミン
- フリーランス: 1年 東京、ハノイ
- ハノイで起業: 2.5年 ハノイ ← イマココ
当初、私の計画では独立はマストではなかった。当時勤めていた会社で、できると思っていたので、私が独立するために必要なスキルや経験を、在籍している会社で検証していったわけではなく、会社を良くしつつ自分の未来のために行ってきた様々な事柄が積み重なり、起業に十分なスキル・経験を獲得し、独立というオプションが発生した。という感じだ。
各キャリアの戦略と転職理由をまとめると、
- 学生ベンチャー・フリーランス: 創発的・衛生要因で転職
- 会社勤め: 創発的→意図的→創発的→…・動機づけ要因で転職
- フリーランス・独立: 意図的
大事なことなので、付け加えておくと、収入が下がったことは一度もない。
学生ベンチャーとフリーランス(3年)
当時趣味で作っていた FORTRAN のチュートリアルサイト(札幌の研究室内のサーバでホスティング)に、当時読み方も知られていない SEO 対策をしたら、トラフィックが爆発的に増え、東京の学会参加時に会った九州の学生から「あれがなかったら卒業できなかった」と感謝されるという事件があり、インターネットすげー!となったのが、私のインターネット原体験だ。同級生の友人に声をかけられ、すすきのの奥で、色々なものを作っていた。何ができるか分かってない学生なので、とにかく経験してと、創発的戦略だったと言える。卒業後、衛生的要因(収入の不安定さ)により、就職することになる。
会社勤め(16年)
ベンチャー・スピリッツ
2004年当時 30〜50人くらいだったと思うが、小さな会社に、マーケター・プランナーとして入った。プログラミングからは離れたが、マーケティング能力というよりは、数学・確率統計の知識で、SEO や SEM などを担当。1年後、上司に自分で作れと言われ、社内ジョブチェンジでエンジニアに。マーケティングから実装までやる、特定の職種に当てはめづらいプレイヤーになる。ベンチャーっぽい人事。朝ミーティングで決めたことを夕方にはリリースするようなスピード感で楽しくやっていた。衛生要因も動機づけ要因も満たされていた。
大企業病?
会社はあれよあれよという間に大きくなり、東証1部上場、海外子会社もでき人数は1000人をあっという間に超える。吹けば潰れるようなベンチャーと違い、マーケットでの発言力が増していく。私たちがリリースするサービスは、それなりに社会に影響力があり、その実感と VSION に邁進する日々に、モチベーションは更に上がっていく一方で、会議が増えスピード感がどんどん落ちていく。ベンチャー時代はその日に意思決定できたものが、半年かかるようになる。仕方がないことなのだが、動機づけ要因は、トータルでは減少していった。頭で分かっていても心はついていかない。
サンフランシスコでぶち上がり
そんな創発的戦略に行くか行かないかの狭間で、SFDC.com の導入に関わりることになる。SFDC.com およびその周辺会社 heroku, Appirio 等の開発が、あまりにも衝撃的だった。SFDC.com のようなモンスターカンパニーが、スタートアップみたいなスピードで意思決定を行い、開発を行っているのだ。heroku は自社サービス愛が引くくらいすごかったし、Appirio 社のスピードとクオリティは ”Agile” の一言では片付けられないようなものだった。
つまり、「上場したらステークホルダーへの説明責任が大きくなって、スピードが落ちるのはやむを得ない。」なんてのは、ただの思考停止な言い訳であることを突きつけられた訳だ。
その後 Appirio 社には、San Francisco でイベントでアポ無しで役員捕まえたり、本社に突撃したりして、どうやっての?どうやってんの?とその仕組みを根掘り葉掘り聞き出した。極めて合理的な仕組みと評価方法だった。CTO/CIO っていうのは、こういうことをやる人なんだなと関心した。
Google 本社や Apple にも行ったが、衝撃の度合いは別次元だった。
オレはこれを自社でやる!と動機づけ要因が弾けた。
ベトナムで実践
SFDC.com は、会社の BPR の観点・利益率向上の観点から、アウトソーシングの可能性を検証するのが目的で、その後の流れとして、オフショア開発の検証として、2014年末にハノイ勤務になる。ハノイではパートナー企業に出向し、ベトナムカルチャーになれるのとアジャイル開発を取り入れて行った。ホーチミンに子会社を立ち上げた後は、いよいよ CIO として計画を立て仕組み化を進めた。必要だったので、ほぼキャッシュアウトからの黒字化経営、無名会社の採用戦略と人事などもやった。小回りの効く小さな海外拠点では、モックファースト、アウトプットファーストで、分かりやすい実績ベースでグイグイ仕組み化を進めて行った。アジャストが度々必要ではあるが、意図的戦略。衛生要因も動機づけ要因も満たされていた。ベトナム内では。
他方、グループ全体はというと、私の理想とはドンドンかけ離れて行った。例えば、開発の効率化をこうやって進めよう・自動化を更に進めよう考えた際に、自動化したら工数が減る(当たり前)→ 開発会社としては売上が落ちる(ふぁ!?)→ だからやらない。というような理論による否定。挑戦しない姿勢がドンドン濃くなっていった。普段なら受けて立つところだが、どうやればうまくいくかを考えるのではなく、どうやれば私にやめさせられるかに終始しているのを見て、これはもうダメだと思った。
そんな中、帰任命令によって動機づけ要因が完全にマイナスに振り切り、帰国初出社日に辞表を出した。これ以上踏ん張って変えていこうというモチベーションが私には残っていなかった。会社もそれを望んでいなかっただろう。私が描く「主体的に築く未来」はここにはなかった。一応補足しておくと、会社が大きくなってダメになったのではなく、私というアセットが、会社の成長に伴う今のステージに合わなくなっただけだ。会社の VISION は素晴らしいし、やっていることも素晴らしい。私がもっと貢献するには、会社から離れた場所でやるべきだと確信する瞬間が訪れただけ。
フリーランス〜ハノイで起業(3.5年)
という訳で、2020年春・コロナ禍真っ只中の人のいないオフィスを最後に、半ば衝動的に退職したわけだが、当面は立て直しのために、エンジニアとしてのリハビリや、個人事業か会社設立かはさておき、事業計画を練った。これからどうやって生きて行こう?と。
エンジニアとしてのリハビリは、マネージャーではあったが割と現場にベッタリいたので、そんなに大変ではなかった。なかったが、大企業では、サービスが安定していることが重要であるため、コロコロ変えることもできないし、カッティング・エッジな技術は取り入れづらい。そんなことを念頭に、マックブックを注文し、新しい技術やトレンドを中心に複数言語(Go, Python, Node, C#, Julia など)で色々作ってみた。
この時点で、2025年にありたい自分に必要なものは、あらかた揃っていた。あとは、足を引っ張られない自由にできる環境があれば、ほぼほぼ完成という状態だ。
今は、自分の会社だけでなく、別の会社にも所属している。フリーランスや再就職は、これまでせっせと構築してきたネットワークの、社外コミュニティ(Agile や Cloud, インフルエンサー, ベトナムなど)、クライアント(不動産関連)などからお声がけいただき、困ることはなかった。諸々の重要なスキルはあるが、ネットワーキングは、私が最も時間・お金・労力をかけてきたものである。ワーク・シフトを読まずとも、最重要であることは明白だ。
海外で起業するには、どうあっても信頼できる現地のパートナーが必要だ。私の会社では、元上司がやってる会社の元部下で、ハノイITコミュニティの知人の奥さん(ベトナム人)を、ホーチミンITコミュニティの別の知人に紹介してもらって、社長をやってもらっている(私は投資家)。
営業も採用活動もこれまでかかった費用はゼロだ。費用がゼロというか活動自体をしていない。全てコミュニティ経由のリファラルだ。
結局、私はハノイで会社を立ち上げたのだが、代案として、インド拠点立ち上げのオファーがあった。私はインドで働いてみたいとも思っていたので、悩んだ。衛生要因は、インドの方が条件が上。動機づけ要因も、インドは私にとっては魅力的だ。悩んだが、衛生要因は満たされており、必要以上に欲しいとも思わないのと、サンフランシスコで受けた激しい衝撃をローカライズして、ワークシフト的に実現させる方が、当時の私には、動機づけ要因の観点で、ワクワクが上だった。
最後の一押しは、ハノイのベトナム人経営者コミュニティだ。全員に絶対辞めとけと反対されたので GO した。というわけで、ハノイにてやりたいことだけをやり、やりたくないことは一切やらない斬新なビジネスモデル(笑)で、起業した。
ワーク・シフトできたのか?
起業には3万ドル程度かかったが、半年で全て回収し、最初の2年間は、仕組み化のローカライズで徹底的に効率化した。私の斬新なビジネスモデルは、ベトナム税務当局から、コストが低すぎる(利益率が高すぎる)と再三指導を受ける程度には、ワークした。
私は、会社を大きくして忙しくなるのが嫌なので、メンバーに、私が構築したビジネスモデルおよび仕組みを持ち出して、大きな会社にして、私の代わりに広めて欲しいと、いまは思っている。お金が必要なら出すし、仕組みが古くなったら、新しいの作ってあげるし。
「私でなければできないこと」ではないことは、私がやる必要がない。経営には飽きたと言った方が良いかも知れない。たいした成功を収めているわけではないが、私の経営者としての成功の基準は、売上・利益の大きさには関係がない。
2年間のビジネスモデルの検証が終わり、最初に書いた通り、自社の仕事だけであれば、稼働時間は週12〜16時間程度。毎日プールで泳ぎ、週3ジムでトレーナーにしごかれ、気分次第で月に数日旅行する。というような生活をしている。クライアントもメンバーも好きな人としか付き合っていない。収入は、前職に比べて倍くらいある(個人所得は半分くらいにしてある)。
3つのシフト:
- ゼネラリストから「連続スペシャリスト」へ
- 孤独な競争から「協力して起こすイノベーション」へ
- 大量消費から「情熱を傾けられる経験」へ
割と達成できているんじゃないかと思う。たぶん、このまま続ければ、ストレスは税務当局とのやり取りくらいになるだろうし、続けられるだろう。とっても健康だし。ハッピー?
飽きちゃった
計画に従い、実行してたどり着いたが、ハッピーかと言われると、それがそうでもない。極度に仕組み化した開発は、簡単に言えばつまらないのである。仕組み化は面白いし、それを使ったビジネスは当然うまくいくが、エンジニアとしてのワクワクがない。すぐ飽きる。
これ以上成長しない最強の勇者にも、彼らが綴る平和への冒険にも、全く興味が持てない。
というわけで、飽きちゃったので、案件は全て引き継ぎ、ここ半年くらい受けていない。法人ニート。計算上、ニートを続けると4年後にキャッシュアウトする。個人としても会社としても衛生要因を気にする必要が特にないため、焦る意味もないので、私を突き動かす、動機づけ要因を探しているところだ。
会社としては、自社の仕組み化を進めるのではなく、他社に仕組み化をインストールする方向に軸足を移そうとしている。仕組み化のポイントは業務分析だが、仕組み化の実装は、いかにソフトウェアを知っているかがポイントだ。なので、それを手助けするサービスをニート期間で作ってリリースした。
しばらく安定稼働まで面倒を見て、次のサービスを企画している。単発で作りたいものはいくらでもある。
結論
私はキャリアを、長期に渡る計画に基づいてクリステンセン教授的戦略で築いてきた。その結果、リンダ・グラットンさんが提唱するシフトを実現できた(と思っている)。
今回紹介した手法は、難しくもなく、極めてロジカルであり、人によってブレるようなものでもないため、誰にでもできる。人によって違うのは、どこに向かいたいかだけだ。10年以上前に出版され、どちらも世界中でベストセラーとなった内容であり、特別目新しいものでもない。
私の経験や行動は、行き当たりばったり、突拍子もない、自由すぎるなどと言われることが多く、キャリアの参考にならないと前職人事にも言われたが、まっすぐに進んできただけだ。
一方で、動機づけ要因が満たされず、いまはニートしていると書いたが、思うに、(私のようにビジネスやお金に強い執着がなく、ただものづくりを楽しみたいだけといったような)エンジニアのキャリアにおいては、不安や不安定の上にしか動機づけ要因を見出すことはできないのかも知れない。もしくは、キャリアを重ねるうちに、衛生要因の割合が減って行き、動機づけ要因でしかドライブできないようになっていくのかも知れない。つまり、動機づけ要因の重要度の見積もりを、私は大きく間違っていたのかも知れない。
ただ、私のキャリアはいつまでも完成しないものだ。そういうものなんだ。動機づけ要因が見つけられなくなり、検証すべき仮説がなくなった時、ひっそりと終わるのかも知れないが、動機づけ要因がどれほど重要なのか身を持って分かっただけでも、この十数年は有意義な時間だったと言える。また、薄々気づいていたが、誰かに何かを教えるということにもモチベーションを感じる。それらを踏まえて、新しいキャンバスに乗り出せば良い。
それでは、エンディング・テーマをどうぞ。