はじめに
『プログラマー脳』と言う本があります
著者の専門がプログラミング教育であることもあって、プログラムそれ自体の書き方を教えるというよりはプログラミングを題材として人の認知や学習の特性を理解するという趣旨の本なのですが、いわゆる通常の技術本とは毛色が違うので、コアなファンにしか受けないと思いきや、私の観測範囲で結構な人が読んでいて驚いています
また各セクションには学術論文の引用も多く、それらはなかなか初学者にはとっつきにくいところもあると思うのですが、私の専攻が彼女(著者の Hermans先生)の専門と少し近い(教育工学)ということもあって、せっかくなので本に引用されている論文を読んでみようと思いました
論文の紹介
今回取り上げるのはこの論文です
Paul A. Kirschner , John Sweller & Richard E. Clark (2006) Why Minimal Guidance During Instruction Does Not Work: An Analysis of the Failure of Constructivist, Discovery, Problem-Based, Experiential, and Inquiry-Based Teaching, Educational Psychologist, 41:2, 75-86, DOI: 10.1207/s15326985ep4102_1
なぜこの論文を選んだかというと、『プログラマー脳』のあとがきに 「私の考え方に多大な影響を与えた2つの論文」 のうちの一つとして取り上げられており、なおかつ、この論文に関しては 「私が知っている教師としての常識が覆されました」 と述べられており、Hermans 先生にとってかなり思い入れのある論文であることが伺えたからです
原文はオープンアクセスなのでこちらから誰でも読むことができます
興味のある方は私と一緒に論文を読みながら追っかけてもらうとより理解が深まるかもしれません
背景
ここからは「著者」という単語を Hermans 先生ではなくてこの論文の著者(=Kirschnerら)を指す単語として使いたいと思います
まずはこの論文を読む前に、論文の背景知識を整理します
この論文のタイトルを直訳すると「指導中の最小限のガイダンスが機能しない理由:構成主義、発見、問題解決型、体験型、探求型教育の失敗の分析」となりますが、ここに出てくる単語は教育学を専攻している人でもない限りあまり聞き馴染みのない単語だと思います
私もパッと説明しろと言われると言葉に詰まるので、恥を忍んで Wikipedia 先生に頼ることにします
この論文のキーワードである「構成主義」についてですが Wikipedia によるとこのように書かれています
構成主義(こうせいしゅぎ)は、学習者たちがある対象について、彼ら自身による(それぞれ違った)理解を組み立てるようなかたちで教育すべきである、あるいは学習者たちの中に既に存在している概念を前提に授業を組み立てる必要がある、というジャン・ピアジェが発達心理学をもとに考案した学習・教授理論を指す。ここでの教師の役目は、学習者がある対象範囲における事実や考えを見つけるのを手助けすることである。
このままだとかなり抽象度が高いですが、私はざっくりと従来の詰め込み型教育のアンチテーゼとして生まれた、いわゆるアクティブラーニング系の教え方のことを指していると理解しています
同じくタイトルに含まれている「発見学習」「問題解決型学習」「体験型学習」「探究型学習」も構成主義と同様に学習者が自ら知識を獲得しに行くタイプの教育を表しているので、この論文のタイトルを意訳すると 「なぜアクティブラーニングは失敗するのか?」 というような感じになりそうです
なのでここでいう「最小限のガイダンス(=ミニマル・ガイダンス)」というのは、単にほとんど指導しない教育というよりは、学習者に探究的な学びを実践してもらうために、あえて知識を全て伝えないという教え方を意味しています
歴史的な経緯で言うと、「ミニマル・ガイダンス」に対応する対義語が「ガイド付き教育(=Guided Instruction)」だとすると、より古い(=昔ながらの教え方)に相当するのが「ガイド付き教育」の方です
最初に知識伝達を主とする「ガイド付き教育」が生まれ、その後、そうした詰め込み型の教育に対する反省から「最小限のガイダンス」が生まれた、という経緯があります
実際に詰め込み型教育に対してよく言われるのが、「知識を一方的に伝えるだけだと学習者が考える能力を奪ってしまう」という批判です1
日本でも「ガイド付き教育」の代表例である詰め込み型教育への反省から、アクティブラーニングを中心とする「ミニマムガイダンス」を中心とした教育にシフトしつつありますが、それもこういった批判によるものでしょう
「ミニマル・ガイダンス」の問題点
ただし論文でも指摘されているように、こうした主張には一つ欠点があって、それは 「ミニマル・ガイダンス」が従来の教え方よりも優れているというエビデンスがない と言うことです
本文の中でも Current Research Supporting Direct Guidance というセクションに「ミニマル・ガイダンス」と「ガイド付き教育」の効果を比較したレビュー論文が色々挙げられているのですが、特に印象に残ったのは以下の2つの研究結果です23
Hardiman, Pollatsek, and Weil (1986) and Brown andCampione (1994) noted that when students learn science inclassrooms with pure-discovery methods and minimal feed-back, they often become lost and frustrated, and their confu-ion can lead to misconceptions
1980年代、90年代の論文なのでやや古いのが気にまりますが、上に書かれているように、生徒が「ミニマル・ガイダンス」的な指導を受けている時に、十分なサポートがないと、かえって自分を見失ったり、混乱して誤解したまま学びを終えてしまうと言うようなことはよく起こります
「ミニマル・ガイダンス」が効果的でない理由
ではなぜ「ミニマル・ガイダンス」で教えた場合にこのようなことが起こってしまうのでしょうか?
著者はその原因は 人間の認知機能の構造 に由来すると主張しています
この論文では学習を長期記憶の変化と定義したうえで、長期記憶に記憶を保存するためにはワーキングメモリにゆとりがあることが鍵になると述べています
ワーキングメモリは脳にある記憶の短期貯蔵庫みたいなもので、外から入ってきた情報を処理するときに使われます
新しい情報を処理する上で欠かせないワーキングメモリですが、一つ欠点があって、それは貯蔵できる情報量に限りがあるということです
一般的にワーキングメモリに貯蔵できる情報の量は3~5チャンク(記憶の意味的な単位)と言われており4、学習者自らが探索的に学習を行うやり方だと、本来学ぶべき知識のほかに膨大な手続きが必要になるので、このワーキングメモリに過剰に負荷をかけてしまいます
ワーキングメモリに過剰な負荷をかけてしまった結果、本来必要な長期記憶への知識の定着が起こりにくくなってしまう、と言うのが「ミニマル・ガイダンス」が失敗する理由です
逆に「ガイド付き教育」では脳は必要な知識の習得に集中することができるので、ワーキングメモリにかかる負荷を最小限に抑えることができ、結果として長期記憶への定着が進む、という構造があります
この論文でよく登場する単語に Worked Example (=範例) という単語があるのですが、「ガイド付き教育」ではこのような範例を学習者に提供することで、学習者の認知的負荷を下げ、結果的にテストで高いパフォーマンスを出すことに成功しているとする研究結果があります5
この論文から何が言えるか
ここまでみてきたように、この論文で主張されているのは学習の目的が長期記憶への知識の定着であるとするならば、アクティブラーニングのような探究的な学習ではなく、従来型の知識伝達的な学習の方が効果的だということです
ただし引用されている文献はどれも年代が古く、かつこの論文自体も約20年ほど前の研究ですから、この論文の主張をそのまま鵜呑みにするのはやや早計かもしれません
この記事ではそれよりも、『プログラマー脳』の著者の Hermans 先生が、「この論文により、私が知っている教師としての常識が覆されました」 と述べた理由を考えてみます
これは私の憶測に過ぎないのですが、おそらく Hermans 先生が驚いたのは学習(教育)において認知科学の果たす役割が大きいということに気付かされたからではないでしょうか?
従来の教育学の考え方だと、どうしても教え方と言うよりは教える目的の方にフォーカスしがちで、例えば構成主義が生まれた背景は「急速に変化し続ける社会では、教育機関を出た後も常に学び続けていかなければならない」6と言うような時代の要請によるものでした
しかしそこにはその教え方が人間の持つ認知機能の性質とマッチしているかと言う観点が抜け落ちていて、構成主義で語られているのはある種の理想論です
『プログラマー脳』の副題に書かれている通り、優れたプログラマーになるためにはがむしゃらにプログラムを書けばいいということではなく、人間の脳の仕組みを理解した上で適切な学習を設計することが大事ということに気づけるかどうかは、今後のプログラマー人生を歩んでいくいうえで、大きな分岐点になると思います
私もそもそも認知科学がプログラミング教育と密接に関わっており、尚且つそれが会社でのオンボーディングに活用できることは全く知らず、この本を読んでから、そんな分野があったのか!、と目から鱗の気持ちです
ちょっと癖はありますが、プログラミングをメタ的に考えたい(メタプログラミングではないけれど)人には結構オススメの本です
よかったらぜひ書籍の方も手に取ってみてください(謎の宣伝)
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Bernstein, D. A., Penner, L. A., Clarke-Stewart, A., Roy, E. J., & Wickens,C. D. (2003).Psychology(6th ed.). Boston: Houghton-Mifflin. ↩
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Hardiman, P. T., Pollatsek, A., & Well, A. D. (1986). Learning to understand the balance beam. Cognition and Instruction, 3(1), 63-86. ↩
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Brown, A. L., & Campione, J. C. (1994). Guided discovery in a community of learners. The MIT Press. ↩
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Cowan, N. (2001). The magical number 4 in short-term memory: A reconsideration of mental storage capacity. Behavioral and brain sciences, 24(1), 87-114. ↩
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Carroll, W. M. (1994). Using worked examples as an instructional support in the algebra classroom. Journal of educational psychology, 86(3), 360. ↩
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E6%88%90%E4%B8%BB%E7%BE%A9_(%E6%95%99%E8%82%B2) ↩