117
62

Delete article

Deleted articles cannot be recovered.

Draft of this article would be also deleted.

Are you sure you want to delete this article?

なぜ国産PC用OS「TRON」は Windows に勝利できなかったのか

Last updated at Posted at 2025-07-23

はじめに

TRON (トロン)とは1984年に坂村氏が発足したプロジェクトの名前です。「今からOSを作るぞー」と言っただけで40年前に動く国産OSなんて開発できていません。Windows 95 の発売の 10 年前に動く TRON なんてありませんでした。市販された TRON パソコン「1B/note」の発売は 1991年で、PC 互換機用の TRON OS「1B/V1」が発売されたのは 1994年、値段は7万円と高額でした(BTRON OS がオープンソースだとか無料だとかいうのはデマ)。1984 年には Apple が Macintosh を発売しており、1985 年に発売された Windows 1.0 はバージョンアップを重ね、1991 年に日本語版 Windows 3.0 が発売されました。1993 年には安定性重視の Windows NT 3.1 が発売され、1995 年には互換性重視の Windows 95 が発売されました。TRON パソコンはそれらの後追いでした。TRON パソコンが完成した頃、優れているとアピールしていた部分の大半は、Windows や Macintosh で実現されていました。パソコン用の TRON OS(BTRON OS)はユーザーにとって、Windows に比べて画期的でも先進的でもなく、優れてもおらず使いやすくもありませんでした。せいぜい「BTRON OS は MS-DOS よりも先進的だった程度」のものです。

現在は TRON は組み込み用のコンピュータ(または OS)と認識されていますが、1980 年代から 1990 年代にかけてパソコン用の TRON(BTRON)も開発されていました。本記事ではパソコン用の TRON コンピュータを「TRON パソコン」、TRON パソコン用の OS を「BTRON OS」と表記しています。

TRON パソコンは 1990 年代にようやく完成しましたが普及することはありませんでした。既存のパソコンと互換性のない独自パソコンを作るには遅すぎたからです。日本では NEC(日本電気株式会社)製のパソコン、PC-98 シリーズが圧倒的なシェアを確保しており、TRON パソコンは国民機と呼ばれた「PC-98シリーズ」に負けました。コンピュータはソフトがなければただの箱と言われますが、TRON パソコンの実験機がようやく完成した 1987 年にすでに PC-98 は数千本の MS-DOS 用アプリケーションを持っていました。Windows 3.x や Windows 95 はそれら多くの MS-DOS アプリケーションがそのまま動いたので、ユーザーは安心して Windows パソコンに乗り換えられました。互換性がなくアプリケーションもほとんどない TRON パソコンは普及する理由が全くありませんでした。TRON パソコンは操作性の統一を狙っていたようですが、蓋を開ければ、独自の TRON パソコンこそが、操作性が統一されていない代表例になっていたのは皮肉な現実です。

TRON に関してはさまざまなデマやデタラメな話が蔓延しています。ノーベル賞受賞みたいな爆笑ネタや、トロン OS 開発者が乗っていた飛行機(JA 123 便)を米国が撃ち落としたとかいうアホな陰謀論は論外として、TRON プロジェクトの発足させた坂村氏でさえ(意図的にやっているのか知りませんが)「TRON は誰でも開発できる」などとおかしな事を言っていますが、自分たちの技術に自信があるのなら、TRON パソコンなんか作ろうとは思わないでしょう? TRON パソコンは米国に潰されたという話がありますが、TRON パソコンが潰れた本当の原因は、日本国民が TRON パソコンを選ばなかったから(PC-98 シリーズを選んだから)です。当時の通産省は、日本の技術に固執するあまり、教育用パソコンに TRON パソコンしか導入できないように企てましたが、それが米国から「不公正な取引慣行」であるとしてスーパー301条の制裁候補に指定されました。制裁候補から外れるように日本政府は教育用パソコンの TRON パソコン統一を断念したところ、多くのパソコンメーカーは TRON パソコンの開発から撤退しました。日本の技術を恐れていない米国は TRON 開発をやめろとは言いませんでした。米国は日本に TRON 開発をやめろと迫ったわけではなく、教育用パソコン市場を開放しろと言っただけです。それなのにメーカーが撤退したのは、国民が TRON パソコンを選ばないと気づいており、統一できないなら TRON パソコンには将来性がないと考えたからにほかありません。スーパー301条は口実に利用されただけです。

どうも坂村氏は TRON が教育用パソコンに採用されるという話で、NEC が猛反対した話や学校教育現場の教師から TRON パソコンの継承性問題についての懸念が大きかったことを語ろうとしないように思えます。TRON パソコンは必ずしも好意的に思われていたわけではありません。坂村氏は教育用パソコンの日本でのごたごたの話の詳細を語ろうとしないため、米国が TRON プロジェクトの中止ではなく、TRON 以外の OS を教育用パソコンに採用できるようにしろと迫ったことも説明できません。スーパー301条で制裁候補に指定された理由を理解するには、教育用パソコンの詳細について知る必要があります。その話の詳細は「国産OSトロン潰しの真実「通産省 vs 文部省、NEC vs 弱者連合」の教育用パソコン問題」でも解説しています。

世の中に普及するものは「ユーザーが本当に欲しいもの」であって良いものではありません。BTRON OS は Windows どころか MS-DOS よりも実用性がありませんでした。パソコンメーカーは売れるパソコンを作らなければいけませんが、TRON パソコンの開発には「売れるパソコンを作る」という戦略がなかったのです。当時のほとんどの人が TRON パソコンを欲しいとは思っておらず、売れるわけがないと思っていました。そんな TRON パソコンを作り、案の定売れなかったというだけの話です。それを日本のマスコミや Microsoft や孫正義のせいにして事実から逃げていては、失敗から学ぶことはできません。通産省は、売れるわけがない TRON パソコンをどうにか日本国内に普及させようとして、国家権力で強制するという最悪の手段を使おうとしましたが、そんな方法で日本に普及させたとしても、競争力が生まれるはずもなく、世界で売れるはずもありません。

推奨図書

素人の情報発信でしかないユーチューバーや note などの記事や Yahoo 知恵袋、作り話で有名な NHK のプロジェクトX「トロンの衝撃」やインベスターZの4巻はデタラメばかりなので参考にしてはいけません。この記事は正確さを担保するために、公式情報、当時の書籍や雑誌、論文や新聞記事を参照しています

関連記事 - 当時の新聞や雑誌などからより正確な情報をまとめました。

その他の関連記事

2025-08-16 内容を大幅に書き換えました(趣旨は変えていないつもりです)

BTRONがWindowsに勝利できなかった理由

TRON が Windows よりも優れていたと思う人は、最新の BTRON OS に乗り換ましょう!

口先だけなのか、今、あなたがどれだけ TRON を愛しているかが試されています。

1. 「国産OS TRON」は無料ではなかった

国産OS「TRON (トロン)」が、無料で誰でもダウンロードして使えたと勘違いしている人が増えてきているようですが、1984 年に坂村氏が「無料で誰でも使えます」といって公開したのは「紙の OS の仕様書」のみです。無料というのは OS の販売価格ではなく OS を開発したメーカーが坂村氏にお金を払わなくて良い(ロイヤリティが不要)という意味です。OS は各コンピュータメーカーがそれぞれ開発するという想定でした。OS なんて誰か一人(一つの組織)が開発すればいいじゃないかと思うかもしれませんが、当時はコンピュータメーカーがそれぞれ独自のハードウェア(CPUを含む)のコンピュータを開発していて、OS は自社のコンピュータ専用に作るもの(そうしないと性能を引き出せない)という発想が普通だったからです。

パソコン用の TRON OS(BTRON OS)を開発していたのは、事実上、松下電器だけです。坂村氏は OS の仕様書が無料だったことをアピールしていますが、BTRON OS の開発費を負担したのは松下電器です。私だって誰かが開発費を負担してくれるというのであれば、いくらでも無料のソフトウェアを開発しますよ。坂村氏は開発費を負担してくれたメーカーにお礼を言うべきです(言っているとは思いますが)。

松下電器はトロンパソコンと BTRON OS を開発していましたが、完成前に松 TRON パソコンの開発から撤退しており、BTRON OS はパーソナルメディアから発売されました。完成した OS は無料ではありませんでした。最初に発売された完全版は 7 万円で、その後に発売された廉価版(表計算ソフトなどが含まれない)は 3 万円でした。Windows 95 も同じく 3 万円ですが、アップグレード版は 13,800 円で購入できました。ちなみに BTRON OS(超漢字)は現在も 2万円で売っています

2. TRONのソースコードは極秘だった(オープンソースではない)

松下電器が開発していた BTRON OS は Windows と同じようにソースコードが極秘、ブラックボックスでした。したがって 中を見ることができないブラックボックスだと教育に適していないと主張するのであれば、BTRON OS は教育用に適していないことになります。オープンソースが希望なら、完全に教育用として作られた MINIX(1987年開発)か Linux(1991年開発)か(BSD などのソースコードが公開された)UNIX を選ぶべきでしょう。

初期の UNIX は事実上のオープンソースでした。これは UNIX を開発していた米国の AT&T ベル研究所が独占禁止法によって UNIX でビジネスを行えなかったのが原因ですが、UNIX は 1975 年にベル研究所の外の大学や企業に安価な金額でソースコード付きで配布されました。それを元に 1977 年にカリフォルニア大学バークレー校が BSD Unix を開発しました。

TRON プロジェクトが開始された 1984 年にはオープンソースという概念はまだ一般的ではありませんでした。奇しくも同じ 1984 年に GNU プロジェクトを開始したリチャード・ストールマンは「自由ソフトウェア」の概念を提唱しました。現在では自由ソフトウェアはオープンソースと言い換えられがちですが、自由ソフトウェアとは次のようなものです。

  1. ソフトウェアをどんな目的でも実行できる自由
  2. プログラムの動作を調べ、必要に応じて改変できる自由(= ソースコードの公開
  3. コピーを再配布できる自由
  4. 改変したものを再配布できる自由

これと比較すると、坂村氏の「無料で誰でも使えます」は真の自由ではありません。なぜなら各コンピュータメーカーが開発した OS は極秘にできてしまうからです。これは開発した製品を企業秘密にしたがる電子機器メーカーにとっては便利ですが、これでは人類の共通の財産にはなりません。GNU のソフトウェアは、GNU ライセンスによって真の自由が約束されています。つまり電子機器を購入した人は、OS などのソースコードも入手できて、必要に応じて改変できることが保証されています。GNU ライセンスを採用した Linux は 1991 年に開発が始まり、1.0 を 1994 年に公開しています。PC 互換機で動作する BTRON OS が(ソースコード非公開で)販売されたのは、1994 年ですが、その頃には Linux がオープンソースで公開されていました。Linux はもちろん無料で誰でも使えました。無料のオープンソースだった Linux は大きく普及して人類の共通の財産になりましたが、秘匿が許される TRON はそうなりませんでした

補足: BTRON のオープンソース版を実装する「B-Free」というプロジェクトもありましたが途中で頓挫しています。

3. オープンアーキテクチャは IBM が先に実現した

TRON プロジェクトの言う「オープン」とはオープンアーキテクチャです。オープンアーキテクチャは IBM が 1981 年に発売したパソコン、IBM PC で実現されました。IBM は元からオープンアーキテクチャにしようとしていたわけではありませんが、Apple のパソコンに対抗するして早くパソコンを作ろうとした結果、自社で何でも作るのではなく他の会社の既存の製品を組み合わせてパソコンを作りました。CPU には Intel の製品を採用し、OS には Microsoft の製品を採用しました。その結果、他の会社でも同じアーキテクチャのパソコンを作れるようになってしまい、事実上のオープンアーキテクチャができあがってしまいました。日本企業を含む多くの会社が IBM PC の互換機を発売し事実上の標準となりました。

TRON プロジェクトとの違いをいうならば、IBM は「既存の製品の組み合わせ」でパソコンを作ったのに対して、TRON プロジェクトは「既存の製品を使わない方針」だったところです。初期の TRON コンピュータは CPU に Intel や Motorola の製品を使っていましが、いずれは専用の TRON チップを使う予定でした。その違いによって IBM は 1 年程度で IBM PC を完成させたのに対して、TRON パソコンは 7 年もかかってしまいました。自前主義(NIH 症候群、Not Invented Here Syndrome)の弊害でしょう。完璧なものを作ろうとしていたからとも言えますが、それは完璧主義の弊害でしょう。

4. OSの開発が遅すぎた

日本は米国よりも圧倒的にパソコン(当時はマイコンと呼ばれていました)の OS の研究開発が遅れていました。米国は日本よりも 10 年以上先を行っており、日本が OS 開発で先行していたことなどありません。

米国でパソコン用の OS が発売されたのは、TRON プロジェクトが始まる 10 年前の 1974 年の CP/M です。TRON は 1984 年にこれから開発するという段階なので 10 年以上遅れています。Apple は 1976 年にパソコンを販売しました。大型コンピュータ(メインフレーム)市場で大きなシェアを持っていた IBM は、Apple 製のパソコンに対抗するために 1981 年に IBM PC を発売しました、MS-DOS は IBM PC 用の OS として 1981 年に(PC-DOS という名前で)開発されました。MS-DOS は 1983 年の NEC 製のパソコン PC-98 シリーズでも使えるようになり、1980 年代の終わりには日本で PC-98 シリーズは圧倒的なシェアを達成しました。その段階になっても TRON パソコンはまだできていません。1987 年にようやく実験機が完成した程度です。

米国で初の GUI システムが誕生したのは 1973 年の Xerox の Alto です。Xerox Star は 1981 年に発売されました。Apple Lisa (1983)、Macintosh (1984)、Windows 1.0 (1985) は GUI システムのモデルは Xerox の Alto を参考にしています。1984 年に開発が始まった TRON は Alto やその他の先行技術を参考にして作られています。TRON ヒューマンインタフェース (HMI) も Macintosh などのインタフェースを参考にして作られたとみて間違いないでしょう(例: 1987 年出版の Apple Human Interface Guidelines: The Apple Desktop Interface)。

5. TRON パソコンが使いやすい = 1980年頃の基準

TRON パソコンにとっての使いやすいとは、1980年頃のパソコンを使っている人が考えた、1990年代のパソコンです。Windows や Macintosh が使いやすくなった1990年代に TRON パソコンはようやく完成したので、完成した時点では TRON パソコンは他のパソコンと比較して使いやすいものではありませんでした。

1980 年頃、坂村氏は米国製のパソコンでは日本語の表示ができないと考えていました。たしかに昔のパソコンは日本語が表示できませんでしたが、この問題は 1981 年から解決へと向かいました。1983 年に PC-98 に移植された MS-DOS 2.0 は日本語表示(Shift JIS)に対応していました。Macintosh では 1986 年の漢字 Talk 1.0 から日本語に対応しました。TRON はすべての漢字を使えると主張していましたが、そもそも TRON パソコンは 1991 年まで完成していなかったわけで、Shift JIS で扱える範囲の漢字であれば、MS-DOS や Macintosh でとっくに使えるようになっていたわけです。Microsoft や Apple は米国生まれの企業ですが、世界を相手にビジネスしているので、大きな市場である日本のことを考えないわけがないのです。

1980 年頃、パソコンの使い方とは BASIC でプログラミングをすることでした。坂村氏はパソコンを誰でも使える(=BASICプログラミングなしに使える)ようにしようと考えていましたが、一太郎や Lotus 1-2-3 など、多くの PC-98 (MS-DOS) 用のアプリの誕生で BASIC プログラミングは必須ではなくなりました

1980 年頃、各パソコンメーカーのパソコンはキーボード配列すら異なり使い方がバラバラだったので使いにくいものでした。坂村氏はパソコンを誰でも使える(=同じ操作性で使えるようにする)ようにしようと考えていましたが、それは Windows 時代のパソコン(PC 互換機)で実現されました。キーボードは標準規格(JIS 配列)をベースにした OADG 規格で標準化されました。一方で坂村氏は JIS 配列は使いづらいと主張し、トロンキーボードは独自配列を採用したため、他のパソコンと同じ操作性で使えなくなりましたキー配列を統一すると言いながら、別のキー配列を一つ増やしただけというオチです。トロンキーボードは今で言うキーボード分離型のエルゴミクスキーボードですが、似たような形のキーボードの先行事例には、1983年3月に NEC が発売した M式キーボード があります。トロンキーボードは 1986 年に設計されました。

MS-DOS はコマンドプロンプトからコマンドを実行するものでした。これを坂村氏はメインフレームや Unix の使い方をそのままパソコンに持ち込んだだけと批判しています。当時のパソコンはグラフィックやサウンドを扱えましたが OS は、それらの機能をうまく活かしていませんでした。坂村氏はパソコンを誰でも使える(=コマンド実行なしで GUI で使える)ようにしようと考えていましたが、GUI は Windows や Macintosh で実現されました

1980 年代、TRON パソコンはまだ完成していませんでした。存在していなかった TRON パソコンがなぜ Windows よりも優れたと言えるのでしょうか? それは現実世界の話ではなく想像の世界の話だったからです。想像の世界では全てがネットワークでつながれた TRON コンピュータだけの世界でした。TRON パソコンがもてはやされたのは TRON パソコンが存在しなかった開発中の話で、TRON パソコンの使いやすさは、Windows や Macintosh などが実現してしまったのです。

6. パソコン用OSを組み込み用OSの延長と考えていた

パソコン用 OS は、組み込み用 OS の延長ではありません。つまり BTRON と ITRON は全く性質が異なります。ITRON の場合、組み込み機器(ハードウェア)を使うことが目的で、そのハードウェアに与えられた役割のみを行えれば、OS の機能として十分です。しかしパソコン用 OS はアプリケーションを使うことが目的で、組み込み用 OS とは比較にならないほどの汎用性と拡張性が必要です。

組み込み用 OS の場合は対応するべきハードウェアが決まっていますが、パソコン用の OS は、さまざまなハードウェアに対応しなければなりません。しかも新しいハードウェアはどんどん作られます。ハードウェアの数は無数にありますし、OS が完成した時点では存在していなかったハードウェアにも対応可能にしておく必要があります。

組み込み用 OS の場合は基本的にアプリケーションのインストール機能はなく、最初から組み込まれたものが動けば十分です。しかしパソコン用 OS は、さまざまなアプリケーションをインストールして使える必要があります。OS は可能な限り多くのアプリケーションに対応できるような API を持っていなければなりません。

組み込み機器では、人とのユーザーインタフェースはハードウェアそのもの(ボタンやレバーやセンサーなど)です。しかしパソコン用 OS は、ハードウェアと人との間にある仲介者(インタフェース)で、ウインドウシステムなど、使いやすいユーザーインタフェースを提供しなけれればなりません。

坂村氏は TRON OS は組み込み機器からパソコンまでなんでも動かせると考えていたようですが、ITRON OS と BTRON OS は性質が全く異なるため、パソコンでも使えるというのは、無理、または、パソコン用の追加機能が多すぎるのでかなり困難です。坂村氏は組み込み用 OS とパソコン用 OS の違いにある程度は気づいていたようですが、大きく違うことには気づいていなかったようです。おそらく 1980 年代の MS-DOS の延長の世界までしか見えていなかったのでしょう。「1990 年代のパソコン用 OS」を作った経験がないのですから、その大変さがわからなくても仕方のない話です。

7. 後方互換性の重要さを甘く見ていた

1970年代、MS-DOS 以前のパソコン(マイコン)の世界では CP/M と呼ばれる 8 ビット OS が広く使われていました。CP/M は 16 ビット版も開発されましたが、リリースは何度も延期されたました。これに業を煮やしたシアトル・コンピュータ・プロダクツ (SCP) は 1980年に、自社の 16 ビットコンピュータ用に 86-DOS を開発しました。86-DOS は CP/M の 16 ビット版クローンとして開発されました。86-DOS は CP/M のマニュアルを見て同じような OS のインタフェースを実装した独自の OS です。OS の仕様は同等ですがソースコードをコピーしたわけではないのでライセンス的な問題は発生しません。

MS-DOS は Microsoft の完全オリジナルではなく 86-DOS を買い取ったものです。86-DOS は CP/M とシステムコールの番号と機能が同じで後方互換性があります。したがって、86-DOS をベースに作られた MS-DOS も CP/M と後方互換性があります。具体的には、MS-DOS では int 21h によるソフトウェア割り込みでシステムコールを呼び出すのが一般的ですが、CP/M の call 5 インタフェースを使っても呼び出せるように設計されており、CP/M 用のアプリケーションを容易に MS-DOS 用に移植できました。

MS-DOS の後継として作られた Windows も MS-DOS アプリを動かせるように後方互換性を重視して開発されています。初期の Windows 1.0 から 3.x までは 16 ビットの MS-DOS 上で動くウインドウシステムでしたが、32 ビット OS の Windows 95 になってからも後方互換性を保っていました。Windows 3.x 用の 16 ビットアプリだけではなく、MS-DOS アプリも Windows 95 用のアプリケーションの一つとして、MS-DOS プロンプトの中で動きました。MS-DOS も Windows も後方互換性を重視して開発されています。後方互換性の重要性はアプリケーションだけの話ではありません。会社によっては自社システムを PC-98 用に作っているかもしれませんし、PC-98 用のハードウェアを持っているかもしれません。ハードウェアへの対応にも後方互換性は必要です。

ユーザーは今持っているソフトウェアやハードウェアやシステムを捨てたいとは思いません。ユーザーにとって何が大切であるかを考えれば、自然と後方互換性の重要性に気づくはずですが、TRON プロジェクトは後方互換性の重要さを甘く見ていました。むしろ後方互換性を捨てて、ゼロから新しく作り直した方が、後々のためになるという発想でした。これは最新技術を使って新しく作り直せば良いものができるはずという、ありきたりな考え方です。このような考え方は(一部例外はあるにしろ)大抵は悪い結果をもたらします。後方互換性はコンピュータの開発戦略の中に最初から組み込まなければいけないほど重要なものですが、TRON プロジェクトにはそれがありませんでした。

8. アプリケーションの数が少なかった

Windows 95 は完成した時点で、PC-98 シリーズ用に開発された数千から数万の MS-DOS アプリケーションを持っていました。一方で同じ頃、完成した BTRON パソコン用のアプリケーションは、標準アプリを除けばほとんどゼロでした。誰がどう見ても大問題なのですが、坂村氏はアプリケーションが少ないことを、アプリケーションはどうせ作り直されるものなのだから気にしなくて良い、実際に必要なアプリケーションは数個あれば十分、などといって正当化していました。これはユーザーが本当に使いたいものは OS ではなくアプリケーションであることをわかっていない人の発言です。ユーザーが使いたいと思っているアプリが、たった 1 つあるだけで移行を妨げるような問題なのですが、このようなアプリケーション軽視の発言は、アプリケーションがほとんど存在しない組み込み用コンピュータ畑の人の考え方なのでしょう。

BTRON OS 用にアプリケーションを開発するのであれば、BTRON OS 用のプログラミング手法を学ばなければなりません。しかし販売数の見込みが少ない BTRON OS 向けにアプリケーションを開発する会社は少ないでしょう。アプリが少ないから TRON パソコンが売れませんが、TRON パソコンが売れないと BTRON OS 用のアプリも増えません。PC-98 という選択肢がある中で発生する「鶏と卵問題」は、デッドロックと同じでそこで停滞します。なぜなら TRON パソコン用にアプリを作る理由がないからです。それでも時間が経てばアプリの数は徐々に増えて行くかもしれませんが、それまでに何年もかかるということは何年も遅れていることを意味します。TRON パソコンと BTRON OS の完成はスタート地点でしかありません。

米国の技術を使わないで日本の技術だけで作ることを目標にしていたのだから仕方ないではないかと思うかもしれませんが、開発者の都合はユーザーに関係ありません。普及させたいと考えるならば、開発者がやらなければいけないことです。それによく考えてください。MS-DOS は CP/M のクローンですし、MS-DOS 互換の OS はいくつもあります(例: FreeDOS、DR-DOS、MEG-DOS、ALICE-DOS など)。このようなクローン OS はライセンス問題などは発生せずに開発できます。したがって、技術的には難しくとも BTRON OS でも Windows 95 と同じような方法で MS-DOS アプリを動かすことは可能だったはずです。BTRON OS はアプリが少ないという問題と闘わずに逃げたから、MS-DOS アプリを動かす仕組みという独創性が生まれませんでした。

9. 標準規格を作れなかった

TRON プロジェクトが始まる前、各パソコンは各メーカー、場合によっては機種ごとに使い勝手が異なっていました。例えばキーボード配列には 1972年に制定された JIS 規格がありましたが、アルファベット(カナ)と一部の特殊キーを除いてキーが決まっているわけではなく、富士通のワープロ専用機では親指シフトキーボードが使われていました。

TRON プロジェクトでは、BTRON 仕様でパソコンに標準化しようとしましたが、世界では IBM PC を出発点として、PC 互換機という形で標準化が行なわれていました。漢字をうまく表示できないという問題があったため、日本では PC-98 シリーズが大きなシェアを取っていましたが、日本語をハードウェアで処理する AX 規格が、1986年 に ASCII と Microsoft によって提唱されました。多くの国内のパソコンメーカーが AX 規格を採用しました。ただし、AX 規格は 1990 年に誕生した、ソフトウェアで日本語表示を可能にする DOS/V 技術の誕生と、1993年の Windows 3.1 発売で消滅することになります。

TRON プロジェクトでは TRON キーボードという、それまでのキーボード配列とは異なる独自規格のキーボードを考案しました。TRON プロジェクトでは、TRON プロジェクトで考えたものに統一することで、機種ごとの違いを無くせると考えていましたが、統一に失敗したことで逆に機種ごとの違いを一つ増やす結果になってしまいました。最終的に日本語キーボードは、OADG(PCオープン・アーキテクチャー推進協議会)が策定した標準規格によって標準化されました。OADG は 1991 年に発足した団体で、1990 年に DOS/V を開発した日本 IBM が立ち上げました。

TRON プロジェクトでは TRON コードという文字コードを発明しましたが、現在主流の文字コードは Unicode です。Unicode は 1988 年に誕生したと言われていますが、Unicode 1.0 の完成は 1991 年です。Unicode の起源をたどると XCCS にたどり着きます。XCCS は Xerox で 1980 年頃に作られた文字コードです。Unicode の策定には Apple、DEC、IBM、Microsoft、NeXT、Novell、Sun、Xerox など世界中から多くの名だたる企業が参加しました。日本からもジャストシステムが参加しています(参考)。

キーボードも文字コードも、標準規格となるものは、最初から多くの幅広い人や団体を巻き込み、意見を交換して作られています。ほとんどを坂村氏一人で仕様書を作っていた TRON プロジェクトでは、独自規格は作れても標準規格は作れませんでした。標準化は一人の手ではできないということなのでしょう。

10. 通産省の教育用TRONパソコンに猛反発したNEC

旧通産省と旧文部省の共管であるコンピュータ教育センター (CEC) は教育用パソコンとして導入するパソコンに、TRON パソコンだけが採用されるように仕向けました。TRON パソコンは開発中で完成していないと言うのにです。完成していないわけですから、当然 TRON パソコンは使いやすいとか優れていたという理由で選ばれたわけではありません。選ばれた理由は日本の技術に固執していた通産省が米国技術を締め出すために、日本の技術だけで作り直そうとする TRON パソコンが都合が良かったからです。正々堂々と戦っては米国技術に勝てないのが目に見えていたので政府が介入しようとしたわけです。通産省は教育用パソコンの話が出る前に、パソコンメーカーに TRON パソコンを作るように通達を出したほどです。

教育用パソコンを TRON パソコンにするという決定は、当時日本で 90% のシェアを持っていた NEC が反発しました。NEC の PC-98 シリーズは OS に MS-DOS を採用しており、すでに多くの MS-DOS 資産を持っていました。NEC 製の PC-98 シリーズは「国民機」と呼ばれるまでに使われていました。しかし多くのパソコンメーカーは NEC に対抗するためだけに TRON パソコンに賛同しました。通産省と各パソコンメーカーは完成していない TRON パソコンに有利なように教育用パソコンの仕様を策定します。しかし NEC は CEC の圧力に屈すること無く、教育用パソコンの仕様を満たすための UNIX と、現場の教師たちが求める MS-DOS の両方が使えるパソコンを開発しました。TRON パソコンに統一しようとしてきた CEC は、NEC の強力な対抗策に頭を抱えることになりました。

小中学校に導入する教育用パソコンなのですから、実際のパソコンを導入する必要はなかったはずです。パソコンの操作を学ぶための簡単なアプリケーションを作ればそれですむはずです。世の中で使われているパソコンとは異なる、独自の TRON パソコンの使い方を学んでも役に立ちません。そういった中で TRON パソコンを強要するということは、実際にパソコンを使う子どもたちや教える教師のことなど全く考えていないということになります。結局、通産省は教育用パソコンを利用して、国内のパソコン市場をコントロールすることが目的でした。教育用パソコンで学んだ子どもたちは、大人になってからも BTRON パソコンを買うだろうというアホな事を考えていました。国民はそんな事を望んでいません。この策略が万が一成功してしまっていたら、日本はガラケーならぬガラパソに支配されていた可能性もあります。一国民として教育用パソコンが TRON パソコンにならなくて本当に良かったと思います。

NEC、Microsoft、Apple、孫正義が教育用パソコンに TRON を蔓延させるのを妨害したという噂がありますが、最初に国家権力を利用して商売の邪魔をしたのは CEC(主に通産省)です。国家権力を使って教育用パソコン市場から TRON パソコン以外を排除しようとしたではありませんか? 国家権力を持ち出して商売の邪魔をするような組織や団体であれば、国家権力に立ち向かえる方法で対抗するのは当然です。最初に手を出したのは CEC なのに、NEC、Microsoft、Apple、孫正義が邪魔をしたからって、被害者ヅラをするのはやめましょうという話です。

NEC が試作機として MS-DOS + BTRON マシンを作ったのだから、NEC も BTRON 導入に賛成したんだろと主張する人がいてびっくりなのですが、NEC は MS-DOS だけで十分と思っており、不要な BTRON を作りたくないわけです。また BTRON OS はすぐに作れないわけで、松下電器から OS を買わなければいけないのは不満でしょう。だから最後まで BTRON 導入に抵抗しているわけです。少しは考えて欲しいものです。

11. BTRON 開発に賛同する人や会社を集められなかった

TRON 協会には多くの企業が賛同したなどと言われていますが、BTRON に限れば開発していたのは、ほぼ松下電器のみです。トロンキーボードやトロンチップを BTRON プロジェクトに含めればもう少し増えますが BTRON OS を開発していたのは松下電器(と後を引き付いだ松下通信工業とパーソナルメディア)だけです。パソコン市場に乗り遅れた松下電器は、大きなシェアを持っていた NEC からシェアを奪おうと BTRON 開発に賭けました。しかしその他のパソコンメーカーは様子見です。

NEC 以外のパソコンメーカーは教育用パソコンで BTRON 陣営だったではないかと思うかもしれませんが、実際に BTRON を開発していたのか?と考えれば、BTRON の仕様を満たすように試作機を作った程度です。BTRON OS は松下電器から購入しました。そりゃまあ、いきなりの短期間で BTRON OS をゼロから作れるわけがないので当たり前です。もし教育用パソコン市場ができていたら BTRON 開発に本気を出していたかもしれませんが、つまりそれを「様子見」というのです。

12. BTRON OS は優れた OS ではなかった

なぜ使ったこともない BTRON OS を優れた OS だったというのかわからないのですが、BTRON OS は優れた OS ではありませんでした。まあ、何をもって優れていたと判断するのか?という話ですが、ここではパソコン用 OS として、Windows 95 と比較して十分な機能を持っていなかったという話にします。

もちろん優れていないというだけで実用的でないという意味ではなく、MS-DOS には負けていましたがワープロや PDA の代わりぐらいには使えていたでしょう。しかしパソコン用の大きな用途であるゲームとしては、実用的ではありませんでした。具体的に言うと、BTRON OS にはサウンド API がありません。まあ BTRON (Business TRON) というぐらいですから、仕事用ぐらいにしか考えていなかったのでしょう。パソコン用途の調査不足ですね。他にもプログラムを作るのに Linux/UNIX が必要となクロス開発環境が必要というような「組み込み畑の人ならそれで満足なんだろうね」と思うような問題点もあります。詳細は以下の BTRON OS 用にゲームを移植した人の記事を参照してください。

他にもいろんなファイル形式に対応していない、拡張性が乏しいなどの問題点があります。詳細は超漢字 V の FAQ を参照してください。

13. スーパー301条はトドメに過ぎない

日本は国家権力で米国が教育用パソコン市場に参入できない環境を作ろうとしましたが、それに気づいた米国は TRON をスーパー301条の候補に指定しました。日本は教育用パソコンを TRON に統一することを断念し、その結果、TRON 陣営は崩壊しました。

ここらへんの話は(坂村氏の発言も含めて)間違っている、または誤解を与えるデマとも言える話が多いのではっきりさせておく必要があります。まず、米国通商代表部(USTR)が TRON をスーパー301条の制裁対象の候補に指定したのは事実です。ただし制裁対象の候補は34項目あり TRON はその一つに過ぎません。USTR は制裁対象に指定したのではなく、候補としてあげただけで、実際に制裁対象となったのは3項目のみです。これは当時の新聞でも報道されましたし、実際の外国貿易障壁報告書の内容(以下参照)からも明らかです。

上記には制裁対象の候補に指定された理由も書いてありますが、TRON が貿易摩擦の直接の原因になっているから指定されたのではありません。貿易摩擦は当時の日本と米国の間ですでに発生していたもので、その原因が日本の「不公正な取引慣行」にあると米国が考えており、(TRON プロジェクト自身ではなく)教育用パソコンを TRON パソコン限定になるような仕様作りをしたこと(米国製のパソコンが参入できないこと)が、「不公正な取引慣行」であると認識されたからです。これに対して次のよう反論は的外れです。

  • 的外れな反論1: TRON プロジェクトは国家主導のプロジェクトではない
  • 的外れな反論2: TRON プロジェクトには誰でも(米国企業でも)参加できる
  • 的外れな反論3: TRON プロジェクトには税金は投入されていない
  • 的外れな反論4: TRON パソコンは完成しておらず貿易摩擦の原因になるはずがない

TRON プロジェクトや TRON パソコンの話は関係ありません。問題点は「教育用パソコン市場の閉鎖性」 であり、その閉鎖性をもたらしたのが、通産省と文部省の共管であるコンピュータ教育センターなのだから、米国の指摘は誤解でもなんでもありません。むしろこのような的はずれな反論をしている方が米国の主張を誤解していると言えます。

日本が日本の教育用パソコン市場を TRON パソコン限定するのが不公正な取引慣行になるということが理解できないのであれば、逆に考えてみればわかるはずです。つまり米国が米国の教育用パソコン市場から TRON パソコンを排除して、TRON パソコンが米国で普及することを妨害してもよいのですか? という話です。日本は競争では米国の技術に勝てないと恐れていたから、国家権力を使って妨害したのです。すべてが TRON パソコンになってしまうと競争原理が働かなくなるという問題もあります。したがって、TRON パソコンだけではなく、PC-98、PC 互換機、Macintosh などさまざまなコンピュータが参入できることは重要です。

TRON は1989年と1990年の二回とも指定されました。これは一回目では問題が十分に解決できていなかったからです。もし一回目で問題が解決されていなければ、二回目が指摘されることはなかったでしょう。スーパー301条の制裁対象にならなかったのは問題が解決したからではなく、問題は解決していないが制裁対象にするまでもないと考えるのが自然です。その証拠に二回目で指定された35項目のうち32項目は一回目と同じものです。もし問題が解決しているのであれば同じ項目がこんなにも再指定されるわけがないですよね? TRON は 1989 年に制裁対象の候補となり、TRON 協会はそれに反論しましたが米国は納得しませんでした。一回目は制裁対象にしませんでしたが、問題が解決していなかったので、1990 年でも制裁対象の候補に指定されました。ただし二回目は BTRON よりも CTRON のほうがウェイトが大きいようです。そのような理由も外国貿易障壁報告書に書いてあるのでちゃんと読んでください

教育用パソコン市場を作るために、補助金という名目でパソコンメーカーに税金をバラマキ、教育用パソコン市場から発展させて国内のパソコン市場をひっくり返そうとする卑怯な戦略は米国にバレていました。これを米国に潰されたと解釈するのは間違いです。なぜなら、最終的に TRON はスーパー301条の制裁対象にはならなかったからです。だからこそ CEC は(教育用パソコンの TRON 統一断念の声明を出した後に)教育用パソコンは TRON パソコンでも良いと声明を出し、実際に松下通信工業(松下電器が TRON 開発から撤退し後を引き継いだグループ会社)が、TRON ベースの教育用パソコンを開発したわけです。TRON パソコンの開発から各パソコンメーカーが撤退したのは、TRON パソコンに将来性がないと気づいていたからです。

当時を知っている人の多くが言ってるように、独自規格の TRON パソコンなんて誰も買うわけないだろという状況なので、米国がなにかをしなくても TRON パソコンは勝手に潰れてました。米国に潰されたから TRON パソコンは開発できなかったなんてデマです。売れる見込みのない TRON パソコンは、スーパー301条の件がなければ、単に自分で潰れていました。「米国に潰されなければ売れていた」ではなく「米国に潰されていなければ自滅していた」というのが現実です。実際に PC 互換機対応の BTRON OS は Windows 95 の 1 年前に発売されましたが、売れなかったのが証拠です。

教訓 闘うことから逃げたから独創性が生まれなかった

独創性とは闘うことから生まれます。闘うとは日本 vs 米国の話をしているのではありません。日本で PC-98 シリーズが普及しているのであれば、その理由を分析して対抗手段を編み出すことです。世界で MS-DOS が普及しているのであれば、その理由を分析して対抗手段を編み出すことです。政府の力で TRON パソコン以外を排除しようとするやり方は、闘いから逃げているということです。そのようなやり方からでは独創性は生まれません。

結局、政府が補助金を出すからといって集まったパソコンメーカーの間には競争は生まれず、補助金目当てで集まったパソコンメーカーなど、結束力が弱い集まりでしかありません。NEC + Microsoft と闘おうとしたのは松下電器だけでした。そのまま NEC vs 松下電器で日本のパソコン開発競争を続けていれば、そこからなにか生まれていたかもしれませんが、政府が教育用パソコンに TRON パソコンを採用し、その他を排除しようと余計なことをしたから、逆に日本はパソコンを作る技術力を失ってしまったのです。

MS-DOS や Macintosh や UNIX の何が優れており、何を取り込むべきかを考え、そしてアプリケーションが少ないという問題を解決するために闘うべきでした。開発者は良いものを作ることしか考えない傾向にありますが、普及させるにはそれだけでは足りません。普及させるにはユーザーに選ばれる OS でなければならず、それをしっかり考えて作っていたから Windows はこうして今も選ばれ続けているわけです。

今では Windows は WSL (Windows Subsystem for Linux) という技術によって Linux アプリケーションが動かせるようになっています。その元となった技術は 1993 年の Windows NT から存在しており、Windows NT は当時に必要だった OS/2 アプリケーションや POSIX 互換インタフェースを実装するために、サブシステムという設計を生み出しました。サブシステムは Microsoft の互換性問題と闘うという精神から生まれた独創性です。

当時の新聞からTRONパソコン失敗の真実を知ろう

日本経済新聞(夕刊)1989年6月12日 より

新聞 内容
教育用パソコン BTRON採用断念 文部・通産両省 摩擦にも配慮

 教育用パソコンの標準規格作りを進めているコンピュータ教育開発センター(略称CEC、宮島竜興理事長、文部・通産両省共管)は、米通商代表部(USTR)が貿易障壁と批判している新しい基本ソフト(OS)「BTRON」の採用を断念した。開発の遅れ、教育現場からの反発に加えて、USTRの批判も考慮した。この結果、標準規格づくりも事実上中止するわけで、現在主流のMS-DOSパソコンが優勢になった。
 CECはBTRONに準拠した教育用パソコンの標準規格作りを進めてきた。ことし末にも仕様を決める予定だったが、このほど、OSについては仕様を決めない方針に転換した。
 CECは、昨年春、日本電気、富士通、松下電器産業など十二社に試作機を提出させた。ところが、どのOSを採用するかをめぐって日本電気が既存パソコンのOSであるMS-DOSの採用を主張するなど混乱が生じ、開発計画も大幅に遅れていた。そのうえ学校現場から、既存パソコンとの継承性を重視する立場から、トロンより現在、市場に最も流通しているMS-DOSをOSにすべきだとする声が高まっていた
 さらにUSTRが四月末、トロン計画を「貿易障壁」と決めつけ、批判したことも、共管の通産・文部両省のトロン採用への熱意を冷やす結果となった。
 (注)トロン計画は一九九〇年代の技術水準をベースに革新的なコンピュータ体系作りを目指している。産業用機器向けの組み込み型OS(基本ソフト)のITRON、パソコン用OSのBTRON、スーパーミニコンや交換機向けOSのCTRON、および三十二ビットMPU(超小型演算処理装置)のTRONチップの四本柱から成り、相互にデータ交換・通信ができるように設計してある。推進母体のトロン協会は八八年三月の設立で、百二十六社が加盟している。

日経産業新聞 1989年6月13日 より

BTRON仕様のOSを開発したのは松下1社だけで、他の11社は松下から調達した。しかし関係筋によると各社の試作機に多くのバグ(ソフト上の誤り)があって、改良に手間取り、88年度中に完了する計画だったCEC(コンピューター教育開発センター)の内部評価もまだ終わっていない状態だ。

計画の遅れの原因を単純化すれば(1)コンピューターの実績に乏しい松下依存のOS開発(2)トロン協会の仕様書が大ざっぱだったこと(3)坂村氏個人のリーダーシップの欠如――に尽きる。[....]こうしている間に教育現場からは「すでに10万台も導入済みのパソコンとの継承性を最優先すべきだ」という声が再度強まっていた。そこへUSTRのトロン批判が加わり、CECが標準規格づくりを断念したわけだ。

参考文献

教育用パソコンをめぐる TRON の真実を知る本

坂村健・TRON関係の本

さいごに

1980 年代に Windows より 10 年進んでいたと言われる OS を日本人が開発していたというのは空想の物語です。TRON パソコンや BTRON OS は完成しており販売されましたが売れませんでした。BTRON OS が売れなかったのは結果論ではありません。開発中に MS-DOS と比較され、これでは売れないと何度も言われていたはずです。BTRON OS が売れなかったのは、多く人が言っていた「売れないという声に耳を傾けなかった」結果です。

売れないということは、開発に投資するお金が得られないということです。Linux は 無料ですが、人気の UNIX の再実装なので人気が保証されており、オープンソースで誰でもソースコードを修正できたため多くのプログラマが開発に参加しました。しかしクローズドな BTRON OS ではプログラマも集まりませんでした。

最新の BTRON OS である「超漢字V」は 2006 年に発売されました。現在もバグ修正程度の更新は行われていますが、機能は 30 年前の姿のままです。新しいファイル形式に対応できず動画の再生もできずブラウザは HTML 3.2 までしか対応していません。新しいハードウェアに対応することができないため、Windows 上の仮想マシンでしか動作保証されていません。OS 開発を続ける力がなくなっているのは明らかです。

117
62
56

Register as a new user and use Qiita more conveniently

  1. You get articles that match your needs
  2. You can efficiently read back useful information
  3. You can use dark theme
What you can do with signing up
117
62

Delete article

Deleted articles cannot be recovered.

Draft of this article would be also deleted.

Are you sure you want to delete this article?