なんの記事?
- 僕の人物像紹介
- 偏差値38がIT系マルチエンジニアになれた経緯
まずITに興味のある方へ
夢のある仕事です。個人差はありますが、僕は4年目くらいにプログラミングについて様々な事がわかるようになりました。(意外と長ぇw)そして、勉強すればするだけお金も知識も自然と増えていくのは魅力的ですね。
やればやるだけ結果が出て、やりがいもあり、終わりがない。これからも需要が増えるため人材、年収も増加傾向にあると思っています。
最初はとても大変だと思います。ただ慣れてITを自分の世界におきファンタジー世界のウィザードだと思えばとても楽しくなります(ある意味の現実逃避w)
今はNoCodeが流行りそうなため、プログラミング知識がなくても開発する手法もあるため試してみると良いと思います。
(追記
コロナ影響でリモートワーク流行のため、リモートしたい方が始めるなら今チャンスかも・・・!
高校生編
1年生
僕は、偏差値38ぐらいの高校に入学しました。
当時は、親不孝者でお小遣いは1万円でおばあちゃんから更にちょこちょこお金をせびり暮らしている馬鹿野郎でした。
もらったお金でFPS等のゲームを買い、ゲーム三昧で夏休み時期は平気で1日10時間以上は費やすほどでした。
授業は寝る、又は、友人と喋るしか能がなく学校ではある意味目がギラギラしていましたw
2年生
ついに僕は、100人強の人数で下から2番目の成績取得してしまいました。
テストが始まった瞬間、トイレに駆け込むきちがいやろうでもありました。
バイトをしていたのですが立ち仕事で、「将来は絶対座れる仕事につきたい!!」としょうもない夢ができました。
漫画本で当時はまっていたブラッディマンディという本を読了しました。そして影響され、ハッカーになりたいと思ったのです。
ハッカーは主にパソコンで座る仕事なので、夢のためにプログラマー、又は、SEになろうと思いました。(今思うと、とても甘い考えですね・・・
大学は4年は長いと思い、情報シス専攻科の専門学校に入学を決心しました。(そもそも学力的に大学に入れない。)
しかし、ギャル系彼女と付き合い学業は怠慢を継続しました。
3年生
ところが3年生になり彼女と別れ、あろうことか真逆の清楚系彼女と付き合うことになりました(後にこの方と結婚)。
ただ、学業怠慢は継続し成績は5段階評価中の2以下しかとれませんでした。
ところが、PCには元から興味があるみたいで夏休みに2週間でブラインドタッチを会得できました。
高校の最後に卒業できないと先生に宣告され、勉強を死ぬほど頑張りなんとかギリギリで卒業はできました。(笑)
専門学生編
1年生
入学に関しては定員割れで難なく合格をいただきました。
学業に関しては、C++の基礎勉強、Javaの基礎勉強、Linuxの基礎勉強など、その基礎が全くわけわからない状態にいました。
あろうことか、他人のPCダウンする知識を得てシャットダウンして、先生にこっぴどく怒られ全員の生徒の前で怒られる羽目になりました。
2年生
卒業制作で、とても熱が入りRPGを制作しました。
卒業制作の上位を獲得し、卒業後には展示会に飾られるほどでした。が、すごい作品を作っている人は周りにもいて上には上がいることを実感しました。
就職活動は作成したRPGを見せたら難なく通過しました。
(卒業制作上位を獲得したのはほぼ熱意なので、熱意は大事は大事ですね。。)
社会人編
1年目
社会人初日からとても緊張して、「はい!、はい!」と野球部員のような低姿勢人間になりました。
言語はPythonを使用し、フレームワークはDjangoのWebサービスを作っていました。
最初はテスターでテスト項目書を作成して、テストしてバグが出たら報告するという短調な作業でしたが、徐々に任せてもらうようになり実装はちょこちょこやらせていただきました。
現場の実装は初めてで、オリジナリティある新卒のソースは全くレビューが通りませんでした。
半年が立った頃に高校と専門学生を共にした友人からお声掛けをいただきました。
2年目
声掛け頂いた新しい会社に入社を決心し、入ることになりました。
主な言語はJavaで、1年目と同じくSIer事業。年収はUPしました。
Javaに関しては静的型付言語でオブジェクト志向が肌に合い感動を覚え、1日2時間ぐらいをある程度理解ができてくるまでの3ヶ月間、仕事以外で勉強していました。
ちなみに、1度目の現場はBtoC事業でした。チケットぴあのような、コンサート等のチケットを販売する企業になります。
入ってまず感じたことは、取締役がかなりの良い人でした。誰にでも明るく振る舞い、一緒に帰る時にはお土産をいただいたり、
妻と一緒に高級な焼肉屋にオフで連れてっていただいたり、本当にたくさんのことをしてくれました。
信頼も厚く、ここで初めて尊敬する人に出会いました。
3年目
1度目の案件が落ち着き、同会社の社員として2度目のPHPを主とする現場へ興味本位で入場しました。
ペチパーの方等には申し訳ありませんが、動的な所がちょっと肌には合わず我慢をしながら仕事をしていました。(今はPHPでも問題ありません)
GCPのサービス移行というインフラ作業を任されテンプレはあったのですが、内容は全くわからず脳死作業をしてました。
Javaが触りたい思いが我慢の限界を迎え現場変更を依頼しました。
4年目
3度目は、アプリ開発の現場へサーバエンジニアとして入場しました。
構成は、バックエンドがjava、インフラがAWSでした。
バックエンドは関数型言語を主に使用しており、入場当初は難しかった記憶があります。
最初は、勉強もあり進みは凡庸的な進みな気がしましたが、徐々に点と点が線につながる現場でもありました。
不思議とドキュメントを見れば何して良いかが少しわかるようになりました。
作業効率化で240時間かかっていた処理を0.5時間にまで短縮もできました。
To be continued... フリーランスへ
備考
私は、こんな人物です。他にも歴史が増えればここに追加していこうと思います。
まだまだ、ペーペーエンジニアなので、これからも世の中のためになるように日々精進します。
最後まで読んでくださった皆様、貴重なお時間を無駄にしてしまいすみません。
そして、本当にどうもありがとうございました!!!