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メインの主張

  • 人類にとって計算したり数えたりする行為はもともとは、具体的な身体行為だった。
  • その営みが発展するに連れて、数学という学問になり現実離れした空空漠漠な世界が構築されていった。それに伴い、身体から数学や計算が離れて行っている。
  • 現代の計算や数学が身体感覚から離れていることを踏まえて、数学に身体性を再び取り入れることの重要性を強調している。

数字の本質について

数とは人間の認知能力を補完し、延長するために生み出された道具である。

人間は少数のモノについては、瞬時にその数を把握する能力がある。
その心理学的能力のことを、「スービタイゼーション(subitazaiton)」と呼ぶ。

その数が多くなってくると徐々に正確に瞬時に把握することができなくなってくる。

その認知的限界であるスービタイゼーションの能力を補うために、いろんな工夫をしてきた。

歴史的工夫には次のようなものがある:

  1. 身体を使って数える。
  2. 木や骨に刻みを入れて、数えたり、記録したりする
  3. 紀元前33000年頃 文字を発明する
    1. シュメール人によって年度版にシュメール文字を使って記述するようになった。
    2. 最古の粘土板には文字とともに数字を表すための記号が書かれた板。

このように、数字は古今東西、人間の認知能力の限界に合わせて工夫を凝らして設計されていった。

こうして身体の各部位や小石や木に刻みを入れて記録したり、外部メディアに記号などを用いて、離散的な数量を把握する人間の能力は拡張されていった。

人間はその認知能力の限界から連続的に数量を把握することができない。3までしかそもそも一瞬で正確に把握することができない。

その能力を拡張するために数学は工夫が凝らされていった。

コラム1

  • Why Japanese People !漢字の一、二、三の後が棒4つじゃないのはなぜかという理由をお笑い芸人であるジェイソンがネタにしているが、それはスービタイゼーションに理由があったということだ。古代のシュメール人が数学的な記号も3以降は異なる表現をしていた。そもそも漢数字だけでなく、古代インド文字もローマ数字もすべて4以降は別の表され方をしている。

コラム2

  • コンピューターやそろばんなどを使うことで、人間は馬鹿になっているのではないかと主張している人達がいるが、その直感は理解できるものの、それは今に始まった
    たことではないことが数字を巡る歴史的な営みからわかると思う。記憶できないほどの連続的な量を記述するためには、外部メディアに文字や数字を記録する必要があったのである。その記憶の外部化が顕著に目に見えてわかるようにしたのが、スマホやパソコン、AIであり、今に始まったことではない。むしろ、脳の認知能力の限界を補う形で発展している数字、道具、テクノロジーを有効に活用すれば、より人間らしく行きていけるはずだ。

コラム3

数学を補う数学について

  • 包丁を使うために、砥石やまな板がある。
  • あるソフトウェアが生まれると、そのソフトウェアを使いやすくするために別のプラグインが開発される。

上記のように、ある道具が生まれるとその道具を使いやすくするためにまた新たな道具が生み出される。そしてその道具同士が相互に依存しあって、道具の生態系が生まれていく。

そして筆者はこれは数学においても同じであると説明している。

その例として、小学生のころに習う筆算を例に上げている。

筆算は今では簡単に誰しもができるが、それは我々があたまがいいからではなく、筆算の一連の手続きが巧みに設計され、その洗練された手続きを開発していった先人たちの努力の営みがあったからである。

筆算の手続きのような、一連の手続きのことを我々はアルゴリズムと呼んでいる。

この本を途中まで読んで思ったこと

数字という道具の周りに、新たな道具や技術が生まれ、それが洗練されていき、一連の手続きとなってまた別の数学的道具が生まれる。道具の生態系と同じように数学的生態系が生まれる。
数学的道具をさらに使いやすくするための数学的道具こそアルゴリズムなのかもしれない。

現代でもその傾向は続いている。

数学を発展させるために数学をする営みのなかで、アルゴリズムを発展させるためのアルゴリズムが生み出されつつある。

このことについては別記事で取り上げたい。

主な内容としては、ニューラルネットワークのスパース化についてである。

  • 数学を巡る営みは大きく分けると2つある。
    1. 数学を数学する
    2. 数学を身体性を結びつける

どうした数学をするのかと問われたり、自分で解いたりするとうーんなんとなく楽しいからであったり、卒業するために必要だからとか、テクノロジーは数学でできている側面があるからとか、経営においても因数分解によってあらゆる原因を分解して対処するためだとか色々考えつくが、卒業するために必要以外を取り除くと、筆者の主張にあるように上記の2つに集約されると思う。

自分で問題を解いたり、数学自体を研究することは、数学を数学することに該当すると思う。

そしてある現象に対する原因を因数分解して考えたり、テクノロジーを発展させるために数学を勉強するのは、数学を身体性と結びつけることに該当すると思う。この場合は、数学と社会が結びついているように思う。

道具を発展させるために道具が生態系の如くうまれ、数学を発展させるために数学をする。これは道具を更に拡張したテクノロジーにも同じことが言えそうだ。

テクノロジーを発展させるためにテクノロジーを生み出していき、テクノロジーの生態系が生まれていく。

一見無意味に思えるテクノロジーが時に生まれることがあるが、それは計算を効率化するための筆算の発明のようなものなんだと思う。そのおもしろテクノロジーが身体性と結びついていないから、無意味で無価値だと判断されることもあるが、それ単体が否定されるものでは無いと思う。

そういう意味では、自分の周りで開催されているアイデアソンはテクノロジーに身体性を吹き込むという意味で非常に有用なものなんだと思う。

今後、テクノロジーの生態系を生むための方法論を考えてみたいと思う。

また、その他の本書の内容も別の記事にしていく。

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