メモや備忘録はあとから見てもわからない・・・
記録には、気合を入れて書く記録とそうでない記録がある。
大切な打合せや会議の議事録等は気合を入れて書く記録にあたる。
開催場所や日時、出席者などがあらかじめ書き込めるフォーマットを使うことも多い。
まず、目的があり、結論があり、誰がどのような発言を行ったかといったことを書く場合もある。
残すことが前提だから、会議の冒頭に「今日の議事は誰?」等といった会話が交わされる。
私は、議事をとる人を、敬意をこめて”議事ラー”と呼ばせていただいているが、”議事ラー”に任命されると、それなりに緊張する。
少し脱線したが、このような記録は(いかんせん頭から尻まで読み切らないと内容がわからないということも多いが)あとから見てもわかるようにはなっている。
一方、日常的な記録はどうだろうか?
「フランクに話しましょう」という場に ”議事ラー” はいらないし、セミナー等に参加する場合は、まず見聞きして理解することが優先だから、書いてばかりもいられない。
「おっ、大事そうだな」等、印象に残ったことはメモを取るものの、あとから見ると「これはいったい何と書いたのか・・・」ということが、己の達筆も相まってわからないことがある。
おまけに、私はものごとのピースを頭の中で組み立てて、それを理路整然と説明するのもうまくない。
これはきっと、メモの取り方のまずいからではないか?と、頭の悪さを慰めたりもしている状況だ。
「点メモ」との出会い
「点メモ」には、KJ法を学ぶ過程で巡り合った。
「点メモ」がいかに大切であるか。私の説明ではなく、以下の引用をご覧いただきたい。
KJ法とは何かという点で、わかりやすい例として「点メモ」という方法がございます。たとえば、私が話しております。そうすると聞いているうちに、何だか関心が巻き起こされてくるものがあるわけです。みなさんのなかで賛成もあれば、反対もある。賛成、反対を問わず、心に波風が起こって、「あいつあんなことをいっているけれど、それについては拙者はこういうことが気になるんだ」ということがございます。こういった場合、すかさずメモをする。これは人の話を聞く上で非常に大事なマナーでありますがKJ法にとっても、きわめて大事なノウハウであると考えております。
この点メモというのは実は、ある意味でだれでも実行していることです。電話がかかってきた。受話器を取ってみたら友達からで、明日の休みに遊びに行こう、どこそこでマイカーで落ち合って、なんてことを連絡するわけです。そのとき、われわれはどうするかというと、たぶん電話機の脇にメモ用紙でもありますと、それに要点をひかえます。このとき、友達の咳払いまで書くなんて人はいないでしょう。
「花」と書いてあれば、明日勤務が終わってから病院へ行って、花子を見舞ってきてやろうということなのです。点メモというのはあくまで自分の心覚えですから、花とだけ書けばいいんです。他人には暗号みたいなものかもわかりませんが、そんなことはどうでもいいので、本人である自分にわかればいいのであります。
みなさんが電話で応対しているときの要点ひかえは、多分、たいていが点メモなのです。したがって、こんなことはだれでもやっているというので、大いに馬鹿にするわけです。
ところが、私は最近ますます、いかに点メモ修行が大事かということを痛感するのであります。実は点メモこそが創造性の出発点であるといってもいいと思うのです。つまり、情報はそれを自分が感じとり、キャッチした時点で、なるべくその時、その場において点メモにしてしまうことが大事なのです。客が帰ってから半時間して、それから客の話の内容をメモしているようでは、もうおおかた情報としての栄養分がなくなってしまうものであります。
私の大先輩で、エンジニアで有名だった西堀栄三郎さんという人がおられます。その西堀さんの言葉を借りますと、情報のビタミン含有量ですね、半時間も経てばそれが大分減っているというわけなのです。
**その時、その場でメモしなければいけない。**いわんや、夕方になってから、上役から文句をいわれるといけないので、頭を振り絞って業務日誌を書くというようなことではいけない。あれではカスカスの情報なのです。栄養分、何にもなし。ところが点メモさえあれば、肉づけして清書できます。
その時、その場のメモというのは、要するに情報としての形は整っていないかもしれないが、新鮮なのです。新鮮であることの価値がいかに大きいかということを、私は創造性に関連して痛感しておるわけです。この新鮮な素材というものは、プンプン土の匂いがする、あるいは泥臭い野菜のようなものかもしれない。けれども、スマートな、洗剤を使って洗われた大根やレタスとは違いまして、そこには思いがけない宝がいっぱい入っている。ビタミン含有量が多いということなのです。
点メモは簡単なことですが、どうしても軽んじられがちです。カスカスになった情報を、みなさん一所懸命データにしようとしている。創造性にとっては非常に悪いことだと思います。(中略)点メモさえしておけば、後で質問するときでもきわめて簡単に、それを見て聞けばいいのであります。相手の話が済んでから、さて何を質問しようかと考えているようではもうアウトということだろうと思います。ついでにもうひとついいますと、何でも記録するというのは、悪趣味な話です。心に波風が起こって、書くに価すると思ったことだけメモすればいいと思います。
引用: 『未知の問題を解決する道 ― KJ法』「点メモで新鮮な取材を」(川喜田二郎)
私なりの「点メモ」の効用
「点メモ」を紹介する前に、私自身が「点メモ」によって実際に感じている効用をお伝えしたい。
- あとから見て「う~ん、何だったかなぁ」というということが本当に減った。
- メモしたこと第3者に伝える際、内容を漏れなく、かつ流れを崩さぬ形でできるようになった。
- メモしたテーマの全体がつかめるようになり、テーマにおける要素の関連もよくわかるようになった。
とにかく、この「点メモ」に出会ってからは、打合せメモ、会議メモ、セミナーメモ、読書メモ・・・○○メモは、ほぼすべて「点メモ」に置き換え・・・というか以前のメモには戻れなくなってしまった。
「点メモ」の書き方
古風堂々数学者(藤原正彦) の一文を例に「点メモ」を作成してみることにする。
勇気と楽観 は人間の能力を開花させる絶対条件と思う。客観的に自己をみつめ分析する、などということをしていたらまともな人間は早晩、自信を喪失しつぶれてしまう。自己懐疑も同様である。指導者の最大任務は、率いる人々に勇気と楽観を与えることなのだと思う。
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① テーマは、『「古風堂々数学者」読書メモ』とした。
「点メモ」を作成すると、文章を一読したときよりも、グンと理解や把握が進みます。上の例ならば、「点メモ」を見ることで 勇気と楽観 に関する認識の奥行きが感じられます。
補足
- 中央にテーマを書く。
- 気にとまったことをテーマの近くに書きたしてゆく。(「点メモ」は、すべての内容を見てから、聞いてから書くのではなく、見ながら、聞きながら書く)
- わかればいい: 明日、谷口に借りていた本を返す なら、以下のようなメモでもいい。何が正解はない。
明日 ――― 谷口
\ 返 /
- 関連があるから線で結ばなきゃ!等と気負わなくていい: ありそうだなと思ったら引けばいい。
- 関連がありそうな内容は、近くに書く。
- 書き終えると、大きなまとまりがみえる。まとまりがわかるように異なる色で線を引き、まとまりは”何を言わんとしているか”を書き添えるとよい。
書き終えると、不思議と全体感がとらえられたような気分になります。
全体が見え、要素間のつながりも見えると、把握したい物事の奥行きが広がる感じです。
「点メモ」の例
以下は、私が サンプルサイズの決め方(永田 靖) という本を読み、描いた「点メモ」です。
以下は、創造性とは何か(川喜田二郎) で描いた「点メモ」です。
統計の入門(gacco講座_受講メモ_link) ←講義録の「点メモ」です。
「点メモ」は、中央のテーマから要素が放射状に広がった姿となることから、「点メモ花火」とも呼ばれている。
雰囲気は「マインドマップ」に似ているが、「点メモ」には要素間の関連があり、要素としてのまとまりのあるので、少し異なる。
最後に
「点メモ」考案者である川喜田二郎先生による 創造と伝統(川喜田二郎) に記されている、”「点メモ」という強力な武器” で締めくくりたい。
私が、この点メモを強調するのは、記録はフレッシュであればあるほどいいということを、強く言いたいからである。実際に人は、その体験が痛切で、その密度が重なるような場合は、体験したときから二分、五分、そして一時間と、時が経てば経つほど、実態からズレて思い込んでしよう傾向があるからである。
つまり、人間には時の経過とともに無意識のうちにイメージを変えてしまう性向がある。本人は変えたつもりはなくても、それは自分の何となく好きな方向に、体験した記憶を歪めてしようということが起こるのである。したがって、よい取材を残すには、その時その場で記録しなかったらだめなので、それは点メモにかぎるのである。もちろん写真で記録を残すのは、パチッと撮るからたしかによいのであるが、それができないならば、点メモにするのがいちばんいいということである。
※より多くの方々に「点メモ」を味わってほしい・・・