Deloitte Quantum Climate Challenge 2023の研究プロジェクトを眺めてみる
2023年に開催されたDeloitte Quantum Climate Challenge (以下DQCCと略記) の受賞研究プロジェクトを眺めてみます。DQCCは毎年開催されるコンペティションで、研究者や開発者を招待し、量子コンピュータを使ってスケールダウンした気候変動問題の解決に挑戦してもらうというものだそうです(詳細)。今年の課題は、大気からCO2を直接回収する材料を設計するためのシミュレーションです。なお、本記事の内容は誤りを含む可能性がありますので、興味があれば原論文("Toward" Metal-Organic Framework Design by Quantum Computing)をご参照下さい。
0. はじめに
今年のチャレンジの勝者は"EcoQult"で、ベルギーの量子コンピューティング・スタートアップQBeeに所属する化学工学専門のKourosh Sayar Dogahe、量子化学専門のTamara Sarac、データ科学専門のDelphine De Smedtの3人の研究者からなるチームでした。2023/9/11付けでarXivに論文が投稿されていますので、そちらを眺めてみたいと思います。課題は、『大気中のCO2を効率的に回収する材料を、量子コンピューターを使ってどのように改善できるか?』というものですが、これはそのままでは大変難しい問題です。そこで、金属有機構造体(metal-organic frameworks: MOF)をターゲットとして、課題を『金属イオンとCO2ガスの脱離エネルギーを量子計算でどの程度精確に評価できるか?』という問題にスケールダウンします。ベルギーのチームは、そのような簡単化した系においては量子計算の潜在的優位性が示せ、量子計算ベースの結果が従来の古典的手法(ここではRHF,CCSD法を指します)を用いた計算精度を上回ることを主張しました。また彼らは、今回の計算をスケールアップするに際に直面する今後の課題についても述べました。
以下、簡単に論文の内容を紹介したいと思います。
1. 問題設定
原論文では、CO2回収材料の設計を以下のような問題にスケールダウンして扱いました。下図の一番左にあるカゴ状の物質がMOFと呼ばれるもので、無機金属クラスターと有機分子という2つの主要成分から構成されています。MOFは、金属カチオン(イオン)と有機配位子の組み合わせによって様々な特性を実現することが知られています。ですので、適切な設計を行えば、CO2を効率的に補足する(他のガスは通す)ような最適なMOFが得られると期待されますが、それには膨大な組合せを考えねばなりません。その作業負荷を低減する一つの方法が量子化学計算などのシミュレーションです(Periodic Density Matrix Embedding for CO Adsorption on the MgO(001) Surfaceなど参照)。ここではMOFとCO2分子が形成する複合体の解離エネルギー(DE)を計算し、それを性能指標とすることで候補となる材料を絞り込みます。
(図1: 原論文の図1より引用)
DEは
\mathrm{DE} = \mathrm{{PES}_{gas-ion}}-(\mathrm{{PES}_{gas}}+\mathrm{{PES}_{ion}})
で与えられます。ここでPESはPotential Energy Surface(ポテンシャルエネルギー曲面)と呼ばれるもので、gas-ionの配置空間に張られるポテンシャルです。このDEを図1の左の多原子に対して計算するのは大変です。そこで、まずはCO2脱離に最も寄与している金属カチオン(ここではMg2+)とCO2間のPESを計算する最も簡単な問題(図1の右図)に落として計算を行います。
2. 問題に対するアプローチ
論文では、量子計算ベースの方法としてVQE(Variational Quantum Eigensolver)を選択しています。VQEは量子古典ハイブリッドアルゴリズムで、量子コンピュータを用いてハミルトニアンの期待値を、古典コンピュータを用いてエネルギー期待値を最小化する変分最適化を行います。この量子計算に対し、古典計算としてRHF法(Restricted Hartree-Fock)とCCSD法(Coupled Cluster single and Double excitation) がそれぞれ用いられています。計算条件は以下のようになります。
2-1.構造最適化
Mg2+-CO2の構造を予め他のソフトで最適化します。論文では、Avogadroというソフトウェアを用いて、汎用力場(UFF)を用いて500ステップで最適化しています。
2-2.活性空間に限定したモデル
Mgイオン-CO2系であっても、そのまま素朴に扱うとなると沢山のゲート数・スピン軌道数になります。現状のNISQデバイスの制限から、少ない量子ビット数で扱える小さなモデルに変換します。図2にあるように、4h4l(HOMOから4つとLUMOから4つまでの軌道を考慮)でも16量子ビット、フェルミオンの項数も8292になります。
(図2: 原論文の表1より引用)
2-3.量子計算(VQE)の計算条件
VQEによるPES計算には、PySCFインターフェースを持つIBM Qiskit Nature Moduleが用いられています。論文内ではバックエンドに状態ベクトルを使用した結果を"VQE-perfect q. "と呼び、バックエンドに実機(Ibmq-nairobi)を用いた結果を "VQE-physical q. "と呼んでいます。VQEのansatz(波動関数を作るパラメ卜ライズド量子回路)にはUnitary Coupled Cluster Single and Double Excitation(UCCSD)を用いています。また基底関数にはSTO-3Gの最小基底、qubitハミルトニアンの変換にはBravi-Kitaev変換、オプティマイザにはSLSQPもしくはSPSAを用い、エラー緩和にはresilience level 1のreadout_errorへの補正を適用しています。
2-4.古典計算の計算条件
STO-3G基底にてRHF法もしくはCCSD法が用いられています。また活性空間を限定したVQE計算の結果に対応させるため、CASCI法も用いられています。
3. 結果
論文の結果を眺めてみます。
3-1. 活性空間のサイズ依存性
下の図3(A)は、活性空間に限定された電子配置を模式的に青色で示しており、残りの不活性な軌道は赤で示されています。図3(B)は、CO2-Mg2+複合系のエネルギーであり、赤の点線がRHF、緑の点線がCCSDの結果、紫の実線がCASCIの結果です。RHF、CCSD、CASCIの順に低いエネルギー値が得られています。また同図(B)のプロットは、各活性空間モデルに対応して計算されたエネルギー値です。1h1lでは精度が悪いですが、それ以上の軌道が関与するモデルでは精度が急に改善することが分かります。"VQE-Perfect q."での2h2lの結果は、CASCI 2h2lとほぼ同等です。但し、量子ベースのVQEでは、活性空間を大きくしても精度の有意な向上は見られていません。一方、CASCIを用いた場合、活性空間のサイズが大きくなるにつれて精度が向上しています。
(図3: 原論文の図2より引用)
3-2. PES
下の図4は、各活性空間モデルでのPESの結果です。1h1lモデルでは、VQEとCASCIの計算はRHFの結果と同程度です。続いて、2h2l、3h3l、4h4lモデルでのPESは、約2.6Åあたりで(RHF,CCSD)の結果とCASCIの結果に大きな差異が見られます。一方、VQEの場合、"VQE-perfect q."と"VQE-physical q."のそれぞれについて、CASCIとそこそこ良い一致が見られています。この点で、論文の著者らは、量子ベースのVQEが古典の手法(RHF、CCSD)よりも精度良く計算できていることを主張しています。
(図4: 原論文の図3より引用)
またCO2-Mg2+の系に対して吸着配向角を考慮して計算すると、2つの自由度で与えられる3次元的なPESが得られたと報告しています。
3-3. MOF全体のエネルギー計算
以上はCO2-Mg2+と非常に局所的で小さな系に対する計算結果でした。最後に、以上の小さい系での計算を踏まえ、MOFユニットセルに対するエネルギーを計算する方法を提案しています。図5に示すように、MOFのユニットセルにはMg2+が6つ含まれています。
(図5: 原論文の図5より引用)
これらの系全体のエネルギーを計算するには、局所エネルギー補正(LEC)法を適用します。これは以下のような手順で実施されます。
- CO2が関与しないMOFユニットセル部位のエネルギー(E(RHFs))を、RHFを用いて計算
- 最も活性の高い6つの反応サイト(6 Mg2+ )とCO2の相互作用エネルギー(E(VQEc))を"VQE-perfect q."を用いて計算(論文ではE(VQEs)となっているが誤記?)
- 上記(VQEc)の反応部位をRHFを用いて計算(E(RHFc) )。
最終的なエネルギーは以下の式で計算します。
\mathrm{E_{LEC}} = \mathrm{{E}_{RHFs}}-(\mathrm{{E}_{VQEc}}-\mathrm{{E}_{RHFc}})
図6は、CO2-6Mg系のCASCIとRHFの値を基準値として、各活性空間モデルにおけるVQEの結果の誤差値を示しています。また、実線は"VQE-perfect q."の4h4lモデルの結果で、図3と同様に閾値として示されています。局所エネルギー補正を適用することで、計算精度が向上していることが確認できます。
(図6: 原論文の図6より引用)
4. まとめ
本論文の結論を箇条書きにすると、
- MOFの設計を量子コンピュータによって向上させることができるかどうかを調べた。
- 量子ベースのVQEを用いて活性空間を限定したモデルを計算し、古典計算(RHF、CCSD)およびCASCI計算とベンチマークを実施したところ、"VQE-perfect q."の結果の方がCASCIの結果と良く一致した。
- 局所エネルギー補正を適用することで、小規模のVQE計算からMOFユニットセルのエネルギー計算への道筋を示した。
- 同時に、より多くの分子軌道を含むモデルへの拡張するには、利用可能な量子ビット数の少なさ、量子ビットのエラー、アルゴリズム設計の課題など、現状の量子モデルやツールの欠点を述べた(この解説は記事内で割愛しました)。
となるかと思います。
※ 蛇足
論文の個人的な雑感です。今回の主張である優位性(昨今、優位性などうっかり言おうものなら大変です)については、用いている系がオモチャなので、どれほど意味があるかは疑問でした。しかし、このオモチャの計算を踏まえて、反応に重要な部分はVQE、他の部位は粗い古典計算で済ませるアプローチ(いわゆるdivide & conquerやDMETなど)は、現状のNISQでなんとか出来そうで面白いと思いました。但し、大きな分子系で活性空間のサイズ・軌道数・基底関数のサイズを増やし、古典系では扱えないくらいの電子配置に対して、まともに「VQE on NISQ」を実施すること(=おそらくは本来の目的)は極めて難しそうである、とも感じました。