原と申します.専門は数理物理学です.ここ数年,九大物理学科(過去三年は化学科も)学部一年の微積を担当しています.物理学(自然科学)における数学の効用(むしろ数学と物理学の密接な関係)について,少し書きます1.いうまでもなく,以下の記事は「数学と物理のどちらが偉いか?」などを論じるものではありません.逆に,両者が手を携えて発展していることをお伝えするものです.
“The unreasonable effectiveness of mathematics in the natural sciences” by Y. Wigner
Yugene Wigner は1960年,“The unreasonable effectiveness of mathematics in the natural sciences”と題した論文(エッセイ)を発表しています(Communications in Pure and Applied Mathematics, 13 (1960) 1-14)2.
この論文の中で,Wignerは「自然科学を記述する言語として,数学が信じられないくらい有効であること」について考察しています.一読を強くお勧めします.
僕の言いたいことは,かなりの部分がこの Wignerの論考に含まれてしまっていますが,少し言葉を付け加えます.
数学そのものの美しさ
言うまでもなく,数学には数学自身の美しさ,強さがあります.その厳密性(論理的に厳密なこと),普遍性(仮定が満たされる限り,一見,全く違う状況下でも普遍的に成り立つこと)は大きな強みです.しかし同時に,数学は美しいものでもあります.
僕が本当に「数学は美しい」と実感したのは,大学に入って複素函数論のゼミ(実質は講義)に参加した時でした.「複素函数として微分可能」という条件をおくだけで,あそこまで豊かな世界が拡がるとは,全く予想外で,心底感嘆しました.僕はそれまで,数学を物理をやるための道具としか見ていなかった面がありましたが,心底ごめんなさいと思いました.
それ以降,少しずつ数学を学んでいますが,数学そのものの美しさについては,本職の数学者に語っていただくのがベストでしょうから,これ以上は述べません.
物理を記述する言語としての数学の有効性
物理学を記述する言語としての数学の有効性は言うまでもありません.Wignerのあげた例とも一部重なりますが,例をいくつかあげましょう.
解析力学
ニュートン力学が微分方程式などを通じて数学的に書かれていること自身,数学の有効性の良い例になっています.しかし解析力学まで進めば,ニュートンの運動方程式が「最小作用の原理」という変分問題と(ほぼ)等価であることがわかります.これは数学的には単なる書き換えとも言えますが,物理としてはかなりの発想の転換でしょう3.
量子力学
いうまでもなく,量子力学は線型代数(函数解析)の言葉で書かれています.線型空間や線型写像という概念がなければ,その体系が古典力学と大きく異なる量子力学を理解(構築)することはかなりの困難を伴っただろうと予想されます.同時に,数学の方で独立に発展してきた線型代数の枠組みが,なぜあそこまで量子力学にハマったのか,Wignerでなくとも不思議に思います4.また,量子力学の誕生を予見するかのように「解析力学」がほぼ完成されていたのも興味深いことです.
一般相対性理論
これもまた,数学と物理学の見事な融合の一つと言えるでしょう.重力を定式化する際に,微分幾何学がここまで役に立つとは,その創始者の一人であるリーマンにも予想できなかったのではないでしょうか?
このような例はつきません(Wignerの論考も参照).Wignerならずとも,「ここまで数学が有効なのには何か理由があるのか?」と思ってしまうところです.
数学的な考察(解析)により,物理学の理解がより深まることも
上では,物理理論の定式化に,数学の概念が有効に使われた例を見ました.数学の効用はそれにとどまらず,「数学的に深い考察を行うことによって,物理学の理解が深まった」例も存在します.
Random Field Ising Model
特に顕著なのは統計力学における random field Ising modelの臨界次元の問題です.
このモデルでは,通常の古典的なイジング模型にランダムな磁場をかけるので,ハミルトニアンは以下のようになります($x, y$は$d$次元格子の点 -- 結晶中の原子をイメージ--,$x \sim y$は隣り合った格子の点のペア, $\sigma_x$は$\pm 1$の値を取るスピン変数,$h_x$がランダムな磁場):
H = - \sum_{x \sim y} \sigma_x \sigma_y - \sum_x h_x \sigma_x
通常のイジング模型は,空間の次元が1より大きい場合,相転移を起こします5.
- 隣り合ったスピン同士が揃った方がエネルギー的に得なので,ゆらぎの少ない低温ではスピンが揃って磁石になります.
- 逆に高温では揺らぎが勝つので,スピンは揃わず,磁石になりません.
- 温度によって磁石になるかならないかが変わる,のが相転移を起こすということです.
- 非常に単純化されていますが,身の回りの磁石のモデルのひとつです.
「空間の次元が1より大きい場合,相転移を起こすこと」を「イジング模型の臨界次元は1である」と表現します.
さて問題は「random field Ising model の臨界次元は何か?」ということです.ランダムな磁場のため,スピンは揃いにくくなり,臨界次元が上がることが予想されます.
この問いについては1970年代に物理学者の間でかなりの論争がありました.
特に優勢だったのは「臨界次元は3である」というものでした --- この主張の背後には「ランダム系の臨界次元はランダムでない系の臨界次元よりも2上がる」という(いくつかの系では実際に正しい)予想がありました.
一方で,(Peierls contour の考えに基づいた)「臨界次元は2」という主張もありましたが,物理学者の中では少数派でした.
この問題は80年代後半になって,厳密なくりこみ群の考えを用いて数理物理学者によって決着がつけられました(「臨界次元は2」が正解でした).これは数理物理学が多数派の物理学者の予想を覆した,面白い例になっています.
場の量子論,統計力学など無限自由度系の物理学
量子力学や統計力学の出現により,物理学の数学的な難しさが一段と増したように,僕には思えます.特に,粒子がたくさん(実質無限個)あるような現実の系を量子力学(+場の量子論)や統計力学を用いて扱う場合,系の自由度が非常に大きいため,基礎方程式(または系のハミルトニアン)を書き下しただけではその系の性質が全くわからない,ことが普通になりました.
それでも系を解析するため,様々な近似的手法や大胆な仮定を用いて物理学者は進みます.しかし時には,その考えがどこまで信用できるのか,怪しい場合もかなり出てきました.大抵の場合では物理学者の集合知は正しいのですが,上で述べた random field Ising model のように,時には多数派が正しくないことも起こり得ます.
このような時こそが,数学的手法の出番だと僕は思います.もちろん,全てを証明し尽くすことは不可能だし意味もないでしょう.しかし物理学における重要な考え方や近似手法については,数学的に厳密に解析しようとすることによって,より深い知見が得られることもあることは歴史が証明しています6.また最近,統計力学や場の量子論の問題は,普通に確率論の問題としても活発に研究されるようになってきました.物理学と数学のさらなる交流でどんな発展がでてくるのか,ワクワクしています.
物理の論文でも数学的手法が多く使われることも(特に学部一年生へのメッセージ)
上のような大掛かりな数学解析でなくても,物理の論文でも数学的な解析が大きな役割を果たすことは多々,あります.例えば「Bellの不等式」の原論文(J.S. Bell, "On the Einstein Podolsky Rosen Paradox". Physics, 1 (1964) 195–200)では $\epsilon$-$\delta$ 的な考え方がさらりと使われています.
一年生の微積でやることでも十分に役に立つんだよ,というわけです.
最後に,より個人的なこと
最後に,僕が数理物理学をやり始めたきっかけと,個人的な数学の効用について述べます.
大学で物理を学ぶのは大変に楽しかったのですが,どうも納得できなかったのが,場の量子論の「くりこみ理論」でした.「相互作用定数」についての級数展開をやっているように見えるのですが,展開の各項は発散している.なので級数展開に意味があるとはとても思えない.にも関わらず系を定義するパラメーターも発散するようにとると答えは有限??(すみません.わざとわかりにくい書き方をしています7)
ここまでわかりにくいのなら切り捨てたいのですが,切り捨てるわけにもいきません.「くりこみ理論」の教える通りに量子電磁力学の摂動計算をした結果(電子の g-factor)は,8桁くらいの精度で実験結果と合ってるというのです.
くりこみは本当にわからない,と一年以上悩んでいたと思います.そのうち,「数理物理学」という学問分野があり,そこでは数学的に物理の基礎問題を考えることが目標であること,さらに数理物理学の大きな目標の一つが(くりこみの問題も含む)場の量子論の数学的解析だと知りました.
となると,これはもう,数理物理学を極めて,場の量子論を理解するしかないではないか!とこの道に入ることにしました.
あまり大きな成果をあげられたわけではありませんが,自分自身ではこの分野を十分に楽しんでこられたので良かったと思っています.
最後に,僕にとっての数学の効用を二つ追加します.
- 「数学的に厳密に解析する」という数理物理学における縛りはかなり有効である.特に「証明が通らない限り論文が書けない」となると,やはり真剣に考えざるを得ないし,その過程で物事の本質が見えたこともある.(慌てて付け加えますが,普通の物理学者の方々は,そのような縛りがなくても深く考えられる方々ばかりなのだと思います.あくまで僕には有効だということです.)
- 「この部分は数学的に証明できている」ことがはっきりしているのは,研究を進める上で精神的にかなり楽である.研究を進める際,最初は色々なところがぐらぐらしていて「自分の予想のどこが正しくてどこが正しくないのか」がなかなかわからない(わかったら問題は解決している).そんな時,「ここだけは数学的に間違いない」部分がはっきりしていれば,それ以外のところに集中して考えられる.
これらの意味でも,僕にとって数学は非常に有効なのです.
人生には限られた時間しかありませんから,全てを学ぶことはできません.しかし,少し数学的な見方や解析を行うことで,物理の見通しがすごく良くなることもあります.うまくバランスをとりつつ,数学的側面にも目を向けて物理を学んでいただければと思います.
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学部低学年の人には未定義用語がいろいろ出てくるかもしれませんが,興味のあるところは検索などしてみてください. ↩ ↩
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余談ですが,この雑誌を発行している Courant Institute of Mathematical Sciences というところで原はポスドクをしていました.ポスドク時代の思い出はたくさんあるのですが,今回のテーマには関係ないので略. ↩ ↩
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Ted Chiang の "Story of Your Life" はなかなかの名作です. ↩
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当然,このあたりで「人類はその時に使える手法で学問をやるのだから,たまたま使える線型代数を使ったに過ぎない」などの反論があり得ることは理解しています.しかし,量子力学の数学的構造を考えると,「他のやり方」はなかなか難しいように思われるのですが...(他のやり方がないわけではありませんが,僕の知る限り,どれも線型代数を用いた記述よりもずっと複雑です.) ↩
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以下は非常に「いい加減」な説明です.正しくは物理の色々な教科書をご覧下さい.↩ ↩
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そのような深い知見を得られる研究を行なったのは物理学者であることが多いです.ですが,その知見を得るための手法が非常に数学的であることが,段々と増えているように僕には感じられます. ↩
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「くりこみ理論」については,現在ではもっと良い理解が存在します.特に1970年代に物理学者が発展させたくりこみ群の考え方を用いれば,「くりこみ理論」をよりわかりやすく理解することが原理的に可能になります.この意味で,「くりこみ理論」には拘らず,「くりこみ群」を学ぶのが正しいと言えます.さらに,「くりこみ群」の数学的に厳密な解析もかなり進展しました.しかしそれでも,量子電磁力学がなぜあそこまで精度良く予言できるのか,僕は満足のいく答えを持っていません. ↩ ↩