概要
Vision RAG(Visual Retrieval-Augmented Generation)は、従来のテキスト中心のRAGを拡張し、「文書を画像として」直接扱って検索・生成を行う最先端技術です。これにより、PDF資料、図表入りマニュアル、プレゼンテーションスライドといった、企業が保有する価値ある非構造化データから、これまで以上に深い洞察を引き出すことが可能になります。
本文では、Vision RAGの基本から、その中核をなす「単一ベクトル型」と「マルチベクトル型」という2つの主要な埋め込みモデルの違い、それぞれの代表的なモデル(Cohere Embed 4, Google Vertex AI, ColPali, ColQwen2)の仕組み、そして企業で導入する際のベストプラクティスまでを徹底的に解説します。
1. Vision RAGを理解するための基本用語
以下の用語が似ているのでまとめました。
用語 | 定義/説明 | 主な機能・特徴 |
---|---|---|
VLM(s)(Vision Language Models) | LLMに画像を理解する能力 (Vision Encoder)がつき、視覚情報とテキスト情報を統合して処理できるようになったマルチモーダルモデル | ・画像キャプション生成 ・視覚的質問応答(VQA) ・テキスト・画像のクロスモーダル検索 ・CLIP、BLIP、GPT-4V、LLaVAなどが該当 |
Vision Embedding(視覚埋め込み) | VLMのVision Encoderが、画像(をチャンクしたパッチ)を共有意味空間内で数値ベクトル化したもの。テキスト埋め込みと互換性があり、直接比較・推論ができる | ・画像とテキストを同一空間で比較 ・類似画像検索 ・マルチモーダルRAGにおける 検索単位 |
Vision RAG(VisRAG) | 文書を「画像」として直接埋め込み → 検索 → LLM生成を行うRAGパイプラインのこと | ・OCRベースRAGが陥りがちな情報損失を排除し、元の視覚情報を活用 ・レイアウトや図表など視覚的情報を保持 ・Cohere Embed 4やColPaliなどが該当 |
MRAG(Multi‑modal RAG) | テキスト・画像・音声・ビデオなど複数モダリティを統合するRAGの総称 Vision RAGはこの中の 画像 に特化した一形態 |
・異なるデータ形式を検索・生成に組み込む ・クロスモーダル埋め込み/個別パイプライン/テキストへの一元変換など多彩な実装パラダイムを含む |
補足:RAG(Retrieval-Augmented Generation)
「信頼できる外部情報を検索(Retrieval)し、その情報をプロンプトに組み込み(Augmented)、LLMで回答を生成(Generation)する」という一連のフレームワークです。LLMのハルシネーション(誤情報生成)や知識の古さを補い、より正確で最新の回答を生成するために不可欠な技術とされています。Vision RAGは、この検索対象を"視覚的情報"に拡張したものです。
2. Vision Embeddingモデルの2大潮流:単一ベクトル型 vs マルチベクトル型
Vision RAGの性能を決定づける中核技術が「埋め込みモデル」です。これは情報をベクトル表現に変換する際の「粒度」によって、大きく2種類に分類されます。
2.1 単一ベクトル型(Single-Vector Embedding)
文書全体や画像全体を、たった1つのベクトルで表現する方式です。文書の要約を読むように、全体のテーマや大まかな意味を捉えるのに適しています。
仕組み
テキストや画像などの情報を処理し、最終的にそれら全てを代表する単一のベクトルを生成します。検索時は、クエリも単一ベクトルに変換され、1回のベクトル類似度計算で高速に検索が完了します
利点
検索が高速で、ストレージ効率が良い。全体的な意味での類似検索に強い
課題
文書内の特定の記述や図表の細部といった、微細なニュアンスを見落とす可能性があります
代表例
モデル | モダリティ | 特長・用途 |
---|---|---|
Cohere Embed 4 | テキスト + 画像 | エンタープライズ検索特化 |
Google Vertex API | テキスト+画像+動画 | 1408次元の高次元対応 |
Amazon Titan | テキスト + 画像 | Amazon/Bedrock 連携済、RAG・検索用途に強い |
OpenAI CLIP | テキスト + 画像 | zero-shot、広く普及中、OSS実装多数 |
Aleph Alpha | テキスト + 画像 | 多言語対応、欧州発のモデル |
Azure Embeddings | テキスト + 画像 | Azure内で検索・OCRなどと統合しやすい |
2.2 マルチベクトル型(Multi-Vector Embedding)
文書や画像を、その内部の構成要素(単語、句、画像の小領域など)ごとに、複数のベクトルで表現する方式です。本の中のすべての単語に索引を付けるようなイメージです。
仕組み
文書をトークンや画像パッチといった小さな単位に分割し、それぞれをベクトル化します。検索時には、後述するColBERTスタイルの遅延相互作用というメカニズムを用いて、クエリの各要素と文書の各要素を細かく比較し、スコアを算出します
利点
文書内部の繊細な関係性や詳細な情報を正確に捉え、きめ細かい高精度な検索が可能です
課題
検索時の計算量が多く、ストレージコストも単一ベクトル型に比べて10倍〜100倍高くなる可能性があります
代表例
モデル名 | 特徴 | 注目用途 |
---|---|---|
ColPali | VLM + ColBERTスタイルで複数ベクトル(Late-Interaction) | PDF/文書中のパッチ単位で詳細検索 |
ColQwen2 | ColPali構成+Qwen2-VL | 同上、より高性能版 |
ColNomic Embed Multimodal | ColPali方式を踏襲 | ViDoReベンチで良好なスコア |
この表現の「粒度」の違いが、検索精度とコストのトレードオフを生み出しており、ユースケースに応じたモデル選択が重要となります。
3. 【方式別】主要モデルの仕組みと特徴
ここでは、それぞれの方式を代表する具体的なモデルを見ていきましょう。
単一ベクトル型モデルはCohere Embed 4, Google Vertex AI Multimodal Embeddings
マルチベクトル型モデルはColPali, ColQwen2について取り上げます。
3.1 単一ベクトル型モデルの代表例
Cohere Embed 4:圧倒的な長コンテキストと堅牢性
Cohere社が開発した、テキストと画像を統合的に扱える単一ベクトル型の埋め込みモデルです。
圧倒的なコンテキスト長
最大128Kトークン(約200ページの文書)を分割せずに、一つのベクトルとして処理できます。これにより、長文の文脈を失うことなく、全体の意味を正確に捉えることが可能です
高度なマルチモーダル対応
テキスト、画像、表、グラフ、コードなどが混在したPDFやプレゼンテーション資料も、複雑な前処理なしでそのまま埋め込めます
堅牢性と効率性
スペルミスや手書き文字といったノイズの多いデータにも強く、埋め込みベクトルを圧縮して出力することでストレージコストを最大83%削減できます
ビジネス応用
企業内のナレッジベース検索、FAQ自動応答、長大な法務・研究文書の分析など、幅広い分野でその真価を発揮します。日本語を含む100以上の言語に対応している点も強みです
Google Vertex AI Multimodal Embeddings:動画にも対応するフルマネージドサービス
Googleが提供する、多様なモダリティに対応した単一ベクトル型の埋め込みモデルです。
広範なマルチモーダル対応
テキスト、画像に加えて 動画データ もベクトル化できる点が大きな特徴です。これにより、例えば商品のテキスト説明と画像、さらには紹介動画を組み合わせて、より精度の高い検索を実現できます
基盤モデル
Googleの高性能なVLMであるCoCa (Contrastive Captioner)をベースとしており、画像とテキストの意味を深く理解します
CoCa: Contrastive Captioners are Image-Text Foundation Models
フルマネージドサービス
Vertex AIプラットフォーム上で提供されるため、インフラの管理や運用の手間をかけずに、すぐに高度なマルチモーダル検索を導入できます
柔軟性
デフォルトの1408次元に加え、ユースケースに応じて128、256、512次元の低次元埋め込みも選択可能で、速度と精度のバランスを調整できます
3.2 マルチベクトル型モデルの代表例
ColPali:画像中心のVision RAG
Googleが開発したVLM「PaliGemma-3B」をベースにした、PDFを「画像」として直接処理するマルチベクトル型モデルです。
仕組み
PDFの各ページを画像として扱い、32x32のグリッド(計1024個)に分割します。これらの各「パッチ」をVision Transformer (ViT)でベクトル化し、1ページあたり1024個のベクトル群として保存します。
高精度検索
テキスト化が困難な図表や複雑なレイアウトもそのままの形で検索対象にできるため、従来のOCRベースの手法を大幅に上回る検索精度(論文ではnDCG@5で81.3を記録)を達成します。
課題
計算コストとストレージコストが非常に高くなるため、大規模なシステムでの運用にはリソースの確保が必要です
ColQwen2:Qwen2-VLを活用した高精度RAG
Alibabaが開発した高性能VLM「Qwen2-VL」を活用したマルチベクトル型RAGアプリケーションです。ColPaliと同様に、PDF文書の画像データを解析して質問応答を行います。
技術的特徴
Qwen2-VLは、ローカル環境でも実行可能なGPT-4 Vision級の性能を持つVLMです。ColQwen2は、このVLMの能力を文書検索に応用し、図やチャートを含む複雑な文書の内容を正確に理解します
柔軟な運用
LoRA(Low-Rank Adaptation)を使用してトレーニングされているため、アダプターを切り替えることで、検索タスクと画像生成タスクを柔軟に使い分けることが可能です
4. 高精度を支えるメカニズム
これらの最先端モデルは、共通の基盤技術と、モデルごとの独自アーキテクチャの上に成り立っています。より深く知りたい方向けに、それぞれの原論文を紹介します。
4.1 共通基盤:ViTとCLIPスタイル対照学習
今回紹介した全てのモデルは、その基盤にVision Transformer (ViT)とCLIPスタイル対照学習という2つの画期的な技術、あるいはそれに類する仕組みを利用しています。
ViT (Vision Transformer)
画像を小さなパッチに分割し、それらを単語の列のように扱ってTransformerモデルで処理する技術です。これにより、画像全体のグローバルな関係性を効率的に捉えることができます (Multi-Head Self-Attention)
An Image is Worth 16x16 Words: Transformers for Image Recognition at Scale
CLIPスタイル対照学習
インターネット上から集めた膨大な「画像とテキストのペア」を使い、「正しいペアの類似度は高く、間違ったペアの類似度は低く」なるように学習する手法です。これにより、画像とテキストが同じ意味空間上にマッピングされ、両者を直接比較できるようになります
Learning Transferable Visual Models From Natural Language Supervision
これらの技術が、異なるモダリティ間の意味的な関連性を学習するための「共通言語」として機能しているのです。
4.2 マルチベクトル型の核:ColBERTスタイルの遅延相互作用
マルチベクトル型モデル(ColPaliなど)がなぜ高い検索精度を実現できるのか。その鍵は 遅延相互作用(Late Interaction) というメカニズムにあります。
ColBERT: Efficient and Effective Passage Search via Contextualized Late Interaction over BERT
これは、検索クエリと文書の関連性を評価するタイミングを、検索時まで「遅延」させるアプローチです。
- 準備
文書は、内部の各トークン(または画像パッチ)に対応する複数のベクトルの集合として保存されます
- 検索:
- 検索クエリも、各トークンごとにベクトル化されます
- クエリの各トークンベクトルに対して、文書内で最も類似するトークン(パッチ)ベクトルを探し出し、その最大類似度(MaxSim)を計算します
- クエリの全トークンについて計算されたMaxSim値を合計し、最終的な関連スコアとします
画像元
このきめ細かい比較により、文書全体を一つのベクトルで比較する単一ベクトル型では見逃されがちな、細部における意味的な一致を捉えることができ、極めて高い検索精度が実現されます。
5. エンタープライズ開発における実践ガイド
では、企業でVision RAGを導入する際、どちらのモデルタイプを選び、どのように実装・評価すればよいのでしょうか。
5.1 性能・コスト比較:どちらのモデルを選ぶべきか?
最適なモデルは、ユースケース、データ特性、予算によって決まります。以下の比較表を参考に、自社の要件と照らし合わせてみましょう。
項目 | OCRベースRAG(従来型) | 単一ベクトル型 Vision RAG | マルチベクトル型 Vision RAG |
---|---|---|---|
前処理 | OCR → テキスト正規化 → 埋め込み | 画像+テキストを統合して単一ベクトルに圧縮 | 画像をパッチ分割し、複数のベクトルとして保持 |
視覚情報の扱い | 失われる。 レイアウト・図表・グラフは基本的に無視される | 全体的に捉える。 ページ全体のレイアウトや要素を一括で扱う | 詳細に保持する。 図表やレイアウトの微細な情報を個別に扱う |
計算・ストレージコスト | 低 | 中 | 高 |
検索精度 | テキスト中心文書では良好だが、複雑なレイアウトでは情報欠落により精度が低い | 高い(全体的な意味理解) | 極めて高い(詳細な情報、複雑なレイアウト) |
言語対応 | 多言語OCR技術が成熟しており、幅広い | モデルに依存するが、多言語対応は進んでいる | 現状では英語中心のモデルが多い |
推奨ユースケース | ・書籍、ニュース記事 ・テキストが主体の社内文書 |
・社内ナレッジベース検索 ・大規模FAQシステム ・文書要約・分類 |
・法務・医療文書の詳細検索 ・技術マニュアルの図解検索 ・研究論文の特定データ抽出 |
5.2 実装のベストプラクティスと評価指標
上記の比較からわかる通り、単一の完璧なアプローチは存在しません。 OCRベースRAGは低コストでテキスト文書に強く、Vision RAGは高コストながら視覚情報に強いという明確なトレードオフがあります。
この現実を踏まえると、両者の長所を組み合わせるハイブリッド戦略が極めて重要になります。
動的なパイプライン選択
文書の種類を最初に判別し、議事録やメールのようなテキスト主体の文書は低コストなOCRベースRAGへ、技術マニュアルや財務レポートのような図表が多い文書は高精度なVision RAGへ、と処理を振り分けるアーキテクチャが効果的です。
メタデータ管理
どのアプローチを使った場合でも、検索結果の信頼性を担保するため、ページ番号やファイルIDといった出典情報を一貫して管理し、LLMの回答に引用させることが不可欠です。
再ランキング
検索(Retrieval)の精度をさらに高めるため、一度取得した上位候補を、より高性能なクロスエンコーダモデルで再評価(再ランキング)する手法も有効です
継続的な評価
システム導入後も、以下の指標を用いて性能を継続的にモニタリングし、改善サイクルを回すことが重要です
指標 | 意味 | Vision RAG特有の指標 | 意味 |
---|---|---|---|
Recall@k | 上位 k 件に真の関連チャンクが含まれる割合 | Visual Understanding Accuracy | 図表やレイアウトの理解精度 |
MRR | 最初に正解が出現する位置の逆数平均 | Multi-hop Visual Reasoning | 複数の視覚要素を組み合わせた推論能力 |
Latency | 検索+生成にかかるエンドツーエンドの時間 | Computational Efficiency | GPUメモリ使用量とスループット |
Hallucination Rate | 誤情報生成率 |
6. まとめ:最適なモデル選択に向けて
Vision RAGは、従来のOCRベースRAGでは不可能だった、視覚情報を含めた文書全体の深い理解を可能にする技術です。
- マルチベクトル型(ColPaliなど)は、外科手術のような精密な情報抽出を可能にし、その高いコストを正当化できる、法務や研究といった高価値なニッチ分野で比類なき能力を発揮します
- 単一ベクトル型(Cohere Embed 4など)は、長文コンテキスト処理能力や多様なモダリティへの対応、そして運用効率の高さを武器に、広範なエンタープライズユースケースに適合します
- OCRベースRAGも、テキストが整然とした文書に対しては、今なお低コストで有効な選択肢としてあり続けます
最適なモデルの選択は、「どちらが普遍的に優れているか」ではなく、「自社のユースケース、データ、リソースにどちらが最適か」という視点で行うべきです。多くの場合、両者の強みを組み合わせたハイブリッドなアプローチが、最も効果的なソリューションとなるでしょう。
まずは小規模なPoC(概念実証)から始め、自社のデータで実際の性能とコストを評価し、データ活用の新たな可能性を切り拓いていくことを強く推奨します。