割り当てられたパソコン
配属して最初に割り当てられたパソコンは、FMR-60HXだった。コードネームは「Raman」(だったと思う)。上位機種にFMR-70HX「Morgan」があった。FMRの2世代目で、初代はFMR-60FD/HD「Compton」、フロッピーディスクドライブのみのモデルとハードディスクドライブ搭載モデルだった。少し遅れてFMR-70FD/HD「Alder」が登場。FMR-60のCPUはIntel 80286、FMR-70は80386だったと記憶している。この頃の開発コード名はノーベル賞物理学者で、FM-TOWNSのタウンズもレーザーで賞を取った「Townes」から来ている。
第二設計課で最初に担当したプロジェクトは「A/C/R」と呼称される、FMR-50HE「Astec」、FMR-60HE「Caro」、FMR-70HE「Ribot」、CPUはFMR-70HEが80386DX、それ以外は80386SXで、どれも32ビットになっていた。80386SXは、80386DXのFPU(浮動小数点演算機能)を省いた廉価版である。当時、浮動小数点演算は必要ならオプションでコプロセッサを外付けするのが一般的だった。FMR-50とFMR-60/70の違いは画面の解像度で、FMR-50の方は640×400、FMR-60/70は1120×750の解像度を持ち、前者は漢字フォント1文字を16x16ピクセルで、後者は24×24ピクセルで表現していた。
同じころ、第一設計課では「Venture」FMR-80HLを開発していた。CPUは最新のIntel 80486DX。A/C/RとVentureには共通のコンセプトがあって、筐体(シャーシ)構造に特徴があった。横置きの筐体で、前面からアクセスできる5インチベイが横並びに2つ、下に3.5インチベイが2つあり、5インチベイには、5インチのフロッピーディスクドライブ(FDD)かハードディスクドライブ(HDD)、3.5インチベイには3.5インチFDDかHDDがオプションで用意され、ユーザーが自由に脱着することができた。本体とのインターフェイスは、SCSIとFDDインターフェイス。CD-ROMドライブやMO(光磁気ディスク)ドライブのオプションもあったと思う。ICカードリーダーもあって、PCMCIA規格のICカードに対応していた。FMRのSCSIは、PC-9801と違って「ちゃんとした」SCSIだ、と先輩が自慢げに語っていた。モジュール式になったこれらの補助記憶装置ユニットは自由に脱着できるが、ホットスワップ機構があったわけではないので、抜き差しの際は必ず電源を切る必要があった。フロッピーディスクが入っていると優先的にそちらから起動しようとするが、FMRのMS-DOSには便利なコマンドがあって、「REIPL X:」と打つとHDDが何台つながっていても、任意の(X:)ドライブから起動することができた。
これはのちのちMS-DOSの3.0、3.1、5.0、6.0とバージョン違いや、バージョンが同じでもconfig.sysを変えた違う環境で起動させたいときに便利だったが、一番使ったのは、FM-OASYS、ワープロのFMR版を起動するときだ。そう、FM-OASYSはMS-DOSからコマンドで起動するのではなく、独自OSの上で動作していたのでFM-OASYSのディスクから起動する必要があったのだ。ディスク上のデータ形式も違うので、MS-DOSからはFM-OASYSのデータは参照できなかった。後年、FM-OASYSのWindows版が登場するまでは、MS-DOSの世界とFM-OASYSの世界は全く途絶されていた。しかし、いったんFM-OASYSを起動すると、キーボードはもちろん親指シフトキーボードだったので、ワープロ専用機そのものになるという「すごさ」があった。この快適さを知ってしまうと、他のパソコン用ワープロソフトはとてもじゃないが使えなかった。
開発チーム
ぼくが配属されたときのチームメンバーは4人、1つ先輩のN村さんがぼくの教育係でRibotの担当、彼は子会社富士通パーソナルシステムズ(FPS)から出向で来ていた。FPSは長野県松本市に開発拠点があってFM-TOWNSの開発はソフトもハードもここの社員が多く関わっていた。もう一人1つ先輩のK藤さんはAstec担当、富士通高専卒で若く、一時期アムウェイにハマって周りを困らせていた(笑)。全体のとりまとめをしつつCaroを担当するT中さんの下についてこの機種をサブで担当することになった。非常に優秀な人で、穏やかだけど怒るとおっかない。この4人で机を並べていた。隣の列にK高さんとM口さん、製造現場との調整や設計データの管理、法規制対応などを担当していた。課長はK多さん。採用の時面接でぼくをここに引っ張ってきた人。のちに仲人もお願いすることになる。