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FMRを開発していた頃のはなし②

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配属先

1990年、新卒で入社した配属先は南多摩工場の、「パーソナルシステム事業部第一技術部第二設計課」だった。富士通のパソコンやワープロ「オアシス」と周辺機器などハードウェアの設計開発を生業とする「パーソナルシステム事業部」で、ビジネス向けパソコン「FMR」シリーズのデスクトップモデルの回路設計を担当する「第一技術部」のうち、フラッグシップモデルが「第一設計課」、わが第二設計課はコストダウンモデルの担当だった。
他には、ノートブックモデル担当の第二技術部、「装置設計」と呼ばれ筐体の構造設計やプリント基板の実装設計のようなメカ担当の第三技術部、モデムやLANカードなどオプションカード担当の第四技術部、ワープロ担当のオアシス開発部、コンシューマ向けのFM-TOWNS開発部隊もいた。プリンタや外付けハードディスクドライブなどの周辺機器は、パーソナルシステム事業部(パソ事)の中にあったり、組織変更で「ペリフェラル事業部」に分かれたりしていた。(他所の部署と担当業務について記憶は正確ではないかもしれない)
だいたい4月と10月に全社で組織変更があって、本部事業部部課の名前が変わったり、統廃合されたり、新設されたりしていたが、業務内容は大きく変わることはなく、ただそのたび名刺を作り直すのが大いに無駄だと当時から感じていた。
自分に身近な話をしよう。配属先の第二設計課はコストダウンモデル、エントリーモデル担当なので、回路設計は先行設計している第一技術部の回路図などを流用する。当時、最先端のCPUを使って、NDAが無いと読めないドキュメントで設計している第一技術部はエリート集団に見えて、憧れの存在だった。しかし、さらに隣には、少人数で何をやっているか良くわからない「方式課」という上位存在がいた。「方式」とは「アーキテクチャ」のこと。FMRのアーキテクチャを統括し、なおかつ将来のアーキテクチャを検討する部隊が彼らだった。

FMR

記事のタイトルにもある「FMR」についてここで紹介しておこう。とはいってもWikipediaで解説されているので、そちらを読んでもらった方が良いかもしれない。
当時、日本のビジネス向けパソコン市場ではNECのPC-9801ファミリが圧倒的なシェアを誇っていた。ただ、現在のようにパソコンはメーカーが変わっても互換性がある(同じアプリケーションソフトウェアが動く、共通のオプション機器が使える)ということはなく、Windows PCとMacがそうであるように、メーカーが違うと同じソフトが動かなかった。
(例外もあって、例えばエプソンはNEC PC-98シリーズと互換性のあるアーキテクチャを採用していた。そのことでNECから訴えられたりもしていた。要するにメーカーは独自アーキテクチャで「囲い込み」をしていた時代だった)
PC-9801も、富士通のFMRも、CPUは同じIntelの16/32ビットのCPU(と互換のアーキテクチャ)を採用しており、OSもいろいろ選ぶことはできたが、標準的にはMicrosoftのMS-DOS(のちWindows)と共通点も多かった。しかし、I/Oバスアーキテクチャが、PC-98は「Cバス」、FMRは「Rバス」と異なっており、これが独自アーキテクチャたる所以で、拡張スロットを使うオプションカード類はもちろん、I/Oアドレスのマッピングが共通ではないので、ソフトウェアでも互換性を持つことがなかった。
(これも例外があって、MS-DOSのシステムコールのうちハードウエア依存の低いものだけを使うようなプログラムだとか、共通の高級言語で書かれたプログラムなどで、どちらでも動かすことができるものもあった。例えば簡単なMS-DOSのバッチファイルは動くし、サードパーティーのBASICで書かれたプログラムが動いたりはした。コンパイルして機械語レベルになるとまずダメ。いわゆるバイナリ互換性は無かった)
80年代に登場したパーソナルコンピュータは、最初はホビー市場向けに電機メーカーなどの主に半導体事業部からリリースされた。最初は半導体を消費してもらうのが目的で、ホビイストを中心に「マイコンブーム」となった。最初は「パソコン」ではなく「マイコンピュータ」略して「マイコン」と呼んでいた。「御三家」と呼ばれていたのが、NEC、シャープ、富士通で、NECはPC-8001、シャープはMZ-80、富士通はFM-8を皮切りにシリーズ展開していた。実は富士通は中でも後発で、ベーシックマスターというシリーズを展開していた日立の方が先行していた。ただ、「コンピュータの富士通」という知名度と期待値があって後発ながら一気にシェアを拡大した。
ホビー向け中心の8ビットから、80年代後半に16ビットCPUが市場展開されると風向きが変わった。大きな転機は「あのIBM」が市場参入するという海外ニュースがあって、16ビットだけど外部バスは8ビットというIntel 8088を採用したコードネーム「ピーナッツ」、IBM-PCの登場(そしてMS-DOSの採用)によって、実用的な使われ方をするようになり「マイコン」という呼称はいつしか「パソコン」になった。日本にIBM-PCが入り込むのはまだ先になるが、いち早く16ビットパソコンをビジネス向けに展開したNECのPC-9801が覇権を握ることになった。
富士通は、FM-8(と後継のFM-7)というホビー向けとは別に、ビジネスを指向したFM-11の後、FM-16βという16ビットのビジネス機を出したが、βというのが「ベータマックス」を想起させるせい、ではないだろうが、ビジネスパソコン市場の立ち上げには失敗した。ホビーパソコンの方は4096色が表示できる「総天然色パソコン」FM-77AVで一定のヒットとなり、その後一気に32ビットにシフトして、当時珍しかったCD-ROMも標準搭載したFM-TOWNSをリリースして成功を収めた。しかし、こと16ビット機に関しては完全に失敗していた。
当時の富士通も、現在と同様「ITサービスプロバイダ」の大手であったので、顧客が使う端末として自社製のパソコンが必要だった。大型コンピュータの端末装置としてFACOM 9450シリーズという「パソコン」はあったものの、単体で使われることはなく、オフィスオートメーション(OA)機器としてのパソコンにFM-16βの後継を作るため、情報処理部門の中にパーソナルシステム事業部が立ち上げられ、FMRシリーズがスタートした。

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