Social Distance と Social Distancing
コロナ禍になってから「ソーシャルディスタンス」ということがしきりに言われるようになった.「ソーシャル・ディスタンス」という用語について,厚生労働省の「新型コロナウイルス感染予防・対策マニュアル」p.17には,ソーシャルディスタンス,ソーシャルディスタンシング,フィジカルディスタンスなどの言葉についての話がコラムとして書かれている.しかし,この話はそもそも何が出典なのだろうか.
Social distance と social distancing は無関係なのか
WikipediaのSocial Distancingのページには「Social distanceと混同するなよ」と書かれているが,social distancing と social distance は無関係なのだろうか.また,防疫のために対人距離を取ることをなぜ "social" と呼ぶのだろうか.謎は深まるばかりだ.
Wikipediaによると,公衆衛生学におけるSocial Distancingは感染症を薬やワクチンなどによらずに抑制するための介入方法であると書かれている.一方,social distanceは社会学用語であり,「社会における個人間あるいはグループ間の距離」と書かれていて,主に心理的な親しさを表している.一方,同じsocial distance はproxemics(近接学)の分野でも使われていて,個人間(あるいは動物の個体間)が他の個体との間でとる距離のうち1.2~3mぐらいの距離を言う.Proxemicsのsocial distanceは,奇しくもCOVID下で言われる「ソーシャル・ディスタンス」と近い.
これらの中では公衆衛生学のsocial distancingが最も納得感がない.なぜsocialなのか理由がよくわからないので,古い文献ではsocial distance/distancing がどのように扱われているのか調べてみた.
文献調査(~1980)
上記の論文によれば,social distanceは冒頭に次のように書かれている.
Social distance, or the lack of fellow-feeling and understanding, continues to exist after spatial distances have been eliminated.
空間的な距離が近くても残っている「仲間感と理解の欠如」とあるので,心理的な忌避感であることが明らかだ.
こっちの1971年の社会学の論文では(全文読めないが、たぶん)世代間ギャップの意味で social distancing と言っている.下の文献と合わせると,少なくとも精神医学と社会学の間でコンセンサスはなかったことがわかる.
1972年のこちらの論文(高校生の精神病患者への偏見に関する調査)では、social distance/distancingは精神病患者を忌避するという意味で使われている.
ニューヨーク大学の1972年の学位論文.題名にSocial Distanceを含む.全文は読めないが,proxemicsの意味でのsocial distanceを指しているように見える.
1976年の児童虐待と低身長についての論文では、被虐待児が他の人を避ける行動を social distancing と呼んでいる。上記のBogardusの論文での使い方とある程度似ているが,ある種の人(この場合は被虐待児)が他人を恐れる行動はちょっと違うニュアンスである気もする.
1978年のこちらの論文でも精神病患者の/への社会的忌避という意味で使われている。少なくとも1970年台の精神医学ではそういう使われ方をしていたようで、それ以外の用例は精神医学以外ではあまり見られないようだ.
この他に,教室での教師と生徒の距離に関する論文の中で social distancing/distance が比較的出てくる.いずれにしろ防疫の意味でのsocial distancingは1970年台の論文では全然出てこないので、この時期にはそう呼ばれていなかったのではないかと思われる.
感染症に関する social distancing
1990年台まで探索範囲を広げて,キーワードに伝染病(infectious disease)を入れてみた.
こちらのHIVに関する論文でもsocial distancing は社会的な忌避の意味で使われている.AIDS関連では次の論文も似たような使い方をしている.
いずれにしろ,感染症に関連する1990年以前の論文で,Wikipediaにある意味で social distancing を使っている例は見当たらない.
次に,1995年まで探索範囲を広げてみる.
患者に対する教育の話.ここでは,
Historically, the quantity and quality of patient education in the United States appears to be inversely related to the degree of social distancing between patients and health care providers.
のように,患者と医療スタッフの社会的分断の意味で使われている.
他にも,AIDSでの患者忌避,世代間分断などの意味で使われている例は散見されるが,防疫の意味で使われている論文は発見できない.
2000年台まで探索範囲を広げても同様.社会的忌避の意味でのsocial distancingがほとんどで,防疫の話は出てこない.
少しずつ時期をずらして検索すると,防疫の意味でのsocial distancingが初めて現れるのは2005年で,鳥インフルエンザの流行に備えた防疫対策として使われたようだ.
- Glass, R. J., Glass, L. M., & Beyeler, W. E. (2005). Local mitigation strategies for pandemic influenza. Alburquerque NM: Department of Homeland Security by the National Infrastructure Simulation and Analysis Center.
- Cetron, M., & Landwirth, J. (2005). Public health and ethical considerations in planning for quarantine. The Yale journal of biology and medicine, 78(5), 329.
- Stohr, K. (2005). Avian influenza and pandemics--research needs and opportunities. New England Journal of Medicine, 352(4), 405-407.
他にもたくさんあり,2005年に突然多用されたのは,おそらくどこか(WHO?)でその用語をつかった声明かなにかが出たのかもしれない.しかし,これらの論文では social distancing は公衆衛生学でよく知られた概念として使われているので,もっと前から使われていたはずだ.
改めて2000年以前で "social distancing" "public health"で調べてみたが,公衆衛生学用語として Social distancingを使う例は発見できなかった.
レビューからたどる
年代を限ってGoogle Scholarで調べても発見できなかったので,もっと後に執筆されたレビューから昔をたどってみることにする.次のレビューを読んでみた.
- [Valdez, L. D., Buono, C., Macri, P. A., & Braunstein, L. A. (2013). Social distancing strategies against disease spreading. Fractals, 21(03n04), 1350019.](Valdez, L. D., Buono, C., Macri, P. A., & Braunstein, L. A. (2013). Social distancing strategies against disease spreading. Fractals, 21(03n04), 1350019.)
ここから辿れるいくつかの論文.公衆衛生学というよりも数理生物学というか数理科学分野の話のようだ.感染症防御の手段のうち,薬やワクチンではなく社会的な手段という意味で social distancing と呼んでいるのかもしれない.
Social distancing がテーマの論文だが,防疫のために距離を取ることをsocial distance と呼ぶことの元ネタは書かれていない.
PubMedで探す
Google Scholarで探すとあまりにゴミが多いので、PubMedで探したところ、2004年の次の論文がヒットした。
SARS対策に関する2004年のレビュー."Measures To Increase Social Distance"という節があり,そこで参照されているいくつかの論文を調べてみる.
屋外の集会への参加の影響などが議論されているが,social distancingという用語は使われていない.
家庭外のいろいろなところで人と接触することを social contact とよんでいるが,social distancing という用語は使われていない.
そもそも social 何とかという単語が使われていない.
ということで,2004年のBellの論文で参照している他の論文では social distance/distancing という用語は使われていない.Bellの論文中では
The interventions included finding and isolating patients; quarantining contacts; measures to “increase social distance,” such as canceling mass gatherings and closing schools; recommending that the public augment personal hygiene and wear masks; and limiting the spread of infection by domestic and international travelers, by issuing travel advisories and screening travelers at borders.
とあり,social distance に二重引用符がついていることから,防疫の意味での Social distance はBellの論文が初出である可能性がある.そうだとすると,次のようなことが言える.
- 最初に使われたのは social distance という用語であるから,「social distancing と social distance は違う」という説明は間違いである.
- 防疫での social distance という用語は,「感染を避けるために人と人の間に距離を開ける」という意味ではなく,学校の閉鎖やイベントの中止などのことを指していた.Proxemics での social distance とは(少なくとも見かけ上)関係がない.
- Social distance に social という用語が使われていた理由は,家庭外での接触を social contact と呼んでいたことに起因するかもしれない.
完全な結論が得られたわけではないが,現状これくらいが精一杯かもしれない.識者の意見を望む.