はじめに
これから書くことは別に新しいことじゃないですが、検索しても出てこなかったのであまりこういう議論はされてないのかな、と思ったので書きました。どこかに既にあったら教えてください。
可動断熱壁で仕切られた断熱容器の左右の区画に理想気体が入っています。左側の区画の理想気体の圧力、温度、体積は$P_1,T_2,V_1$で、右側の区画の理想気体の圧力、温度、体積は$P_2,T_2,V_2$であるとします(以下、この状態を始状態と呼びます)。十分時間がたった後、両区画の圧力が等しく$P$になった時の左側の区画の理想気体の温度と体積は$T_1',V_1'$であり、右側の区画の理想気体の温度と体積は$T_2',V_2'$である、とします(以下、この状態を終状態と呼びます)。
このとき、$P_1 >P_2$であれば断熱壁は右に動くので当然、$V_1 <V_1'$です。一件、これは熱力学を持ち出すまでもなく、力学の問題であるように思えます。ですが、これは以下に見るように「断熱過程ではエントロピーは増大しなくてはならない」という制限から来るのだとみなすこともできます。固定した透熱壁の両側の温度が異なるとき、熱は高温側から低温側にしか流れない、という制限がエントロピー増大則と等価であることは多くの教科書に書かれていますが、可動断熱壁が高圧側から低圧側に動くという制限もエントロピー増大則と等価であることはあまり指摘されていないようです。きっと上述のように力のバランスから自明だからでしょう。ここではこの「可動断熱壁が高圧側から低圧側に動くという制限はエントロピー増大則と等価」であることを示しておきたいと思います。
始状態と終状態の関係
まず、容器全体は外界から断熱されており、体積も変化しませんから、エネルギー保存則(熱力学の第一法則)が必要です。左側の区画の理想気体のモル数を$n_1$、右側の区画の理想気体のモル数を$n_2$、とすると、理想気体の状態方程式$PV=nRT$から
$$
n_1 = \frac{P_1 V_1}{R T_1}, n_2= \frac{P_2 V_2}{R T_2}
$$
と計算できます。理想気体のエネルギーは絶対温度に比例することから、始状態と終状態でエネルギーが等しいためには
$$
n_1 T_1 + n_2 T_2= n_1 T_1' + n_2 T_2'
$$
でなくてはなりません。$n_1,n_2$を代入すると
$$
P_1 V_1 + P_2 V_2 = P (V_1 +V_2) (1)
$$
を得ます。従って
$$
P= \frac{P_1 V_1 + P_2 V_2}{V_1+ V_2}
$$
と求まります。もう1つの制限は体積の保存で
$$
V_1 + V_2 = V_1'+ V_2'
$$
です。
エネルギー保存則は断熱壁の移動方向を決めない
エントロピー増大則を考えない限り、この2つの式以外に制限はありません。$V_1',V_2'$の値は$V_1 + V_2 = V_1'+V_2'$を満たすどんな値でも取りえまるので、これだけでは$P_1 >P_2$なのに$V_1 >V_1'$、つまり、圧力が低い方から高い方に向かって断熱壁が動いてもいいことになってしまいます!
力の向きと逆に動いたらエネルギー保存則に反してしまうと感じるかもしれませんが、そんなことはありません。元々、力の向きと移動方向にはなんの関係もありません。質点が重力に逆らって上に向かって移動してもエネルギー保存則的には何も問題ないですよね?「いや、それは運動エネルギーがあってそこでエネルギー収支を合わせているだけでいまは断熱壁の質量は考えてないのだから運動エネルギーはないのだし、だったら、力に逆らって動くためのエネルギーはどこからくるの?」と思うかもしれません。でも、そこは問題ないのですよね。$P_1 > P_2$なのに断熱壁が左に動いたら左側の区画の温度が上がり、右側の区画の温度が下がるだけだから結局、右側の区画が左側の区画に仕事をしたことになって、エネルギー保存則とは全く抵触しません。「止まっている物体(ここでは可動断熱壁)が力と逆向きに動くなんてありえない」という直観は実はエネルギー保存則だけでは説明できないのです。圧力は力や仕事に関係する量ですから、エネルギー保存則だけで説明できそうな気がしますが違います。エネルギー保存則だけでは、断熱壁が圧力の低い方から高い方に動くことは阻止できません。
エントロピー増大則
左の区画の理想気体のエントロピー$S$を考えましょう。
$$
S= n R \log V + n C_V \log T
$$
なので、始状態では
$$
S = n_1 R \log V_1 + n_1 C_V \log T_1
$$
終状態では
$$
S' = n_1 \log V_1' + n_1 C_V \log T_1'
$$
です。気体のモル数は一定ですし、いちいち$n_1$を書くのも面倒なので、1モルあたりのエントロピーだけ考えることにして、右辺の$n_1$は以下では書かないことにします。理想気体の状態方程式から求まる式
$$
T = \frac{PV}{nR}
$$
を使って$T_1,T_1'$を消去し、更に(1)式を使って$P$も消去すると
$$
S = R \log V_1 + C_V \log \frac{P_1 V_1}{n_1 R}
$$
$$
S'= R \log V_1' + C_V \log \frac{PV_1'}{n_1 R} = R \log V_1' + C_V \log \frac{P_1 V_1 + P_2 V_2}{V_1+ V_2} \frac{V_1'}{n_1R}
$$
となります。よって
$$
S' - S = R \log \frac{V_1'}{V_1} + C_v \log \frac{P_1 V_1 + P_2 V_2}{V_1+ V_2} \frac{V_1'}{P_1V_1} = R \log \frac{V_1'}{V_1} + C_V \log \frac{1 + \frac{P_2}{P_1} \frac{V_2}{V_1}}{1+ \frac{V_2}{V_1}} \frac{V_1'}{V_1}
$$
になります。左側の区画は断熱系ですからエントロピーは増大しなくてはなりません。つまり$S'-S>0$であることになります。ここで
$$
x = \frac{V_1'}{V_1}
$$
$$
\gamma = \frac{1 + \frac{P_2}{P_1} \frac{V_2}{V_1}}{1+ \frac{V_2}{V_1}}
$$
とおけば
$$
S'-S = R \log x + C_V \log \gamma x= (R + C_V) \log x + C_V \log \gamma (2)
$$
と書けます。さて、ここで$P_1 >P_2$なのに$V_1' < V_1$、つまり、断熱壁が圧力の低い方から高い方に向かって動くとどうなるでしょうか?この場合$\frac{P_2}{P_1}<1$なので$\gamma$の分子は分母より小さいので$\gamma<1$となります。また$\frac{V_1'}{V_1}<1$なので$x<1$です。よって$\log \gamma <0, \log x<0$となってしまうので$S'-S<0$になってしまいます。つまり、「可動断熱壁が低圧側から高圧側に動かないという制限はエントロピー増大則によって保証される」ことが分かります。決して高圧側と低圧側で力のバランスが崩れているから低圧側に向かって動く、わけではないのです。
左側の区画の終状態の体積には下限がある
それでは$P_1>P_2$の時は$V_1' >V_1$ならどんな場合でも許されるのでしょうか?残念ながらそうはいきません。$P_1>P_2$なら$\frac{P_2}{P_1}<1$なので$\gamma<1$で$\log \gamma<0$、
$V_1' > V_1$なら$\frac{V_1'}{V_1}=x>1$なので$\log x>0$であるので$S' -S <0$になるとは限りませんが、でも、必ず正というわけではありません。これが正の値を取る場合にはある制限があります。それは
$$
(R+C_V) \log x > - C_V \log \gamma
$$
$$
\left (\frac{V_1'}{V_1} \right)> \gamma^{-\frac{C_V}{R+C_V}}
$$
ここで$\gamma = \frac{P}{P_1}$だったことを使うと
$$
\left (\frac{V_1'}{V_1} \right)> \left( \frac{P_1}{P}\right)^{\frac{C_V}{R+C_V}}
$$
になるので結局
$$
V_1' > V_1\left( \frac{P_1}{P}\right)^{\frac{C_V}{R+C_V}}
$$
を得ます。つまり、左側の区画の体積には「最低でもここまでは膨張しなくてはいけない」という下限があるわけです。それはいったい、どのような下限でしょうか?それは等号が成り立つ時を考えると解ります。等号が成り立つのは
$$
P V_1'^{\frac{R+C_V}{C_V}} = P_1 V_1^{\frac{R+C_V}{C_V}}
$$
の時です。なんのことはない準静的な断熱膨張のときの関係式が出てきました。つまり可動断熱壁は、素早く動く程大きく膨張できる一方、どんなにゆっくり動いても膨張を完全に抑えることはできず、準静的な断熱膨張より少ない膨張をすることは無理だ、ということです。そういう意味では準静的な断熱膨張は断熱膨張の下限になっているとも言えます。断熱過程では、準静的な断熱膨張以下の膨張で止まることはできない、ということですね。
一方、$V_1+V_2=V_1'+V_2'$なので、$V_1'$の上限は$V_1+V_2$です。なのでもし
$$
V_1\left( \frac{P_1}{P}\right)^{\frac{C_V}{R+C_V}} > V_1 + V_2
$$
になってしまったら、最大限膨張しても準静的な断熱膨張に追い付かず、断熱膨張そのものができないというパラドックスに陥ってしまいます。それは大丈夫でしょうか?$\gamma$を使った式に戻ると
$$
V_1 \gamma^{-\frac{C_V}{R+C_V}} > V_1 + V_2
$$
$$
\gamma^{-\frac{C_V}{R+C_V}} > 1 + \frac{V_2}{V_1} = 1+x
$$
$$
-C_V \log \gamma > (C_V+R) \log(1+ x)
$$
$$
(C_V+R) \log(1+ x) + C_V \log \gamma <0
$$
という式になります。(2)式と比べると
$$
(C_V+R) \log(1+ x) + C_V \log \gamma > (C_V+R) \log x + C_V \log \gamma = S'-S >0
$$
なのでこの式が負になることはあり得ないことがわかります。従って、膨張の下限である準静的な断熱膨張が$V_1+V_2$を越えることはありえず、結局、準静的な断熱膨張を下限とし、$V_1' =V_1+V_2$を上限とする全ての断熱膨張が許されることになります。
左右両区画の準静的な同時断熱変化は禁止されている
両方の区画がそれぞれ準静的な断熱膨張、準静的な断熱圧縮した時(つまり、左側が膨張した時には右側が圧縮され、逆に左側が圧縮されたときには右側は膨張する)には
$$
V_1' = V_1\left( \frac{P_1}{P}\right)^{\frac{C_V}{R+C_V}}
$$
$$
V_2' = V_2\left( \frac{P_2}{P}\right)^{\frac{C_V}{R+C_V}}
$$
なので
$$
V_1' + V_2' = V_1\left( \frac{P_1}{P}\right)^{\frac{C_V}{R+C_V}}+ V_2\left( \frac{P_2}{P}\right)^{\frac{C_V}{R+C_V}}
$$
となります。これが$V_1+V_2$になっていればいのですが、$P=P_1=P_2$、つまり、始状態で等圧の場合以外は成り立ちません。始状態で等圧なのでは可動断熱壁は動きようもありません。結局、左右の区画が同時に準静的な断熱膨張、断熱圧縮をすることはできません。
この点は固定された透熱壁の両側の温度が異なっている場合から出発して等温になっていく場合とは異なります。固定された透熱壁の両側の温度が異なっている場合から出発して等温になっていく場合には左右の区画は準静的な過程を経ているとみなすことができ、しかし、全体でみると準静的な過程ではないのでエントロピー増大則を破らない、ということが可能でした。しかし、可動断熱壁の場合は、左右の区画が準静的な断熱過程になってしまうとエントロピーは変わらず、熱のやり取りもないので、系全体としてもエントロピーは増大しないことになります。しかし、可動断熱壁の両側では圧力が違うので準静的な過程とは言えないので、もし、左右の区画が同時に準静的な過程を経ることが出来てしまったら、系全体として見たら準静的な過程ではないのにエントロピーは増大しないという矛盾が起きてしまいます。この様なことが起きないのは、ここで示したように、左右の区画が同時に準静的な膨張と圧縮だけを経て可動断熱壁の両側が等圧になる状態に至ることはできない、という制限によって初めて保証されます。だから、左右の区画が同時に準静的な断熱変化をすることはできないようになっています。
終わりに
可動断熱壁が高圧側から低圧側に動くのは力のバランスを考えると当たり前のような気がしますが、実際にはエントロピー増大則を持ち出さないと説明できない熱力学的な現象です。高温から低温にしか熱が流れないという説明にエントロピー増大則を持ち出さないといけない(あるいは高温から低温にしか熱が流れないということとエントロピー増大則は等価であるということ)のと同じことです。可動断熱壁には質量は無いことになってるので、加速度も発生しません。だから、力の向きでどっちに向かって動くかは決められません。あくまで互いに接している2つの系がエネルギーをやり取りするときに起きる制限、つまり、エントロピー増大則のなせる業です。