はじめに
僕はとにかく、どんなことに対してもこう思ってしまう。
- 「なぜこうなるんだろう?」
- 「どうしたらこうできるんだろう?」
気づけばいつも、「仕組み」や「背景」を探ってしまう自分がいる。
それはただの知的好奇心ではなく、もっと根源的な衝動だと思う。
なぜ、僕は探究してしまうのか?
その原点を、いま改めて見つめ直してみたい。
泥団子をひたすらピカピカにする保育園児
保育園の記憶の中で、いちばん鮮明なのは「泥団子を磨いていた時間」だ。
砂が細かければ細かいほど、泥団子はピカピカになる。
そのことを身体で覚えた僕は、手当たり次第サラサラな砂を探していた。
なぜサラサラを探すのか?
それは「もっとピカピカにできるかもしれない」から。
もっと言えば、自分がまだ見たことのない「究極のピカピカ」を見たいから。
このときから僕は、
*「よりよく整えること」への欲求
*「その先にある未知の美しさへの探究心」
を持っていたんだと思う。
整えたい。それがすべての起点
気づけば僕は、こんなことにも夢中になっていた。
- コピーライターとして、情報や言葉を整えたら結果が出た
- 食事法を調べ、縄文時代の食にたどり着いた
- 瞑想をすると思考がクリアになるのが心地よかった
物、言葉、情報、身体、思考
どんな対象であっても、僕は「よりよく整えたい」という衝動を抑えられない。
人と違うことにワクワクする
僕は、人と違うこと、まだ価値として認識されていないことに対して、強く惹かれる。
- みんなが英語を学ぶなら、中国語を学ぶ。
- 中国がネガティブに語られるなら、自分の目で見に行く。
なぜなら、そこにはまだ整えられていない価値が眠っているから。
それを整えることで、誰かの役に立つかもしれない。
いや、仮に誰の役にも立たなくてもいい。
僕はきっと、ただ整えたいから整えている。
でも、それが価値となり、誰かの助けになるなら、それほど嬉しいことはない。
おわりに
僕は、見えないものをカタチにすることにワクワクする。
技術の深掘りも、言葉の選び直しも、食や習慣の最適化も、すべては「整えたい」から始まっているように思える。
だから、これからも僕は整え続けるだろう。
夢中になれることを、夢中でやっていたら、
それが誰かの役に立っていた。
そんな働き方ができたら、どれだけ幸せか
自分の可能性に、ワクワクする。
夢中になれることを、仕事にしていきたい。