AI駆動開発の挑戦が各組織で進む中、開発プロセスの見直しの必要性が各所で言われています。
AIによるプログラミングの代替期待はソフトウェア開発にとってエポックメイキングな出来事です。ただ、工場の自動化など生産現場ではすでに大きな変更は過去に発現しており、そこから発生した課題はいろいろな書籍で分析、整理されています。
その中でも有名なものはザ・ゴールでしょう。そこで用いられたTOC、DBRの概念を例にソフトウェア開発の変化を企業組織がどう捉えるかをAIコーディングの現状を踏まえて記載しました。
はじめに:ボトルネックの大移動
エリヤフ・ゴールドラットが『ザ・ゴール』で提唱した制約理論(TOC)は、製造業だけでなくソフトウェア開発にも適用できる普遍的な原理です。システム全体のスループットは、最も遅いプロセス(ボトルネック)によって決定される。この単純な真理が、AI時代において新たな意味を持ち始めています。
従来のソフトウェア開発において、ボトルネックが「コーディング」にあることが多い状況です。優秀なエンジニアの手は限られており、彼らがコードを書く速度が、プロダクトの開発速度を決定していました。しかしAIの登場により、このボトルネックが劇的に移動しています。コードを書くことが制約ではなくなったとき、新たなボトルネックはどこに現れるのでしょうか。
第1章:制約の移動を理解する
コーディングという制約からの解放
GitHub CopilotやClaude、ChatGPTを使い始めたエンジニアが最初に感じるのは、圧倒的な生産性の向上です。これまで1日かかっていた実装が、1時間で完成する。まるで工場に新しい高速機械を導入したかのような変化です。
しかし、ゴールドラットが教えてくれたように、一つの工程を改善しても、システム全体の生産性は必ずしも向上しません。むしろ、新たなボトルネックが顕在化するだけです。AI導入後、多くの組織が直面する現実がこれです。
新たな制約:要件定義と意思決定
コードが素早く書けるようになると、次の制約が明らかになります。それは「何を作るべきか」という要件定義と、「これで進めてよいか」という意思決定のプロセスです。
従来、3ヶ月かけて要件定義を行い、1ヶ月で実装するプロジェクトがあったとします。AIによって実装が1週間でできるようになっても、要件定義に3ヶ月かかっていては、全体のスループットはほとんど改善されません。ドラム(制約工程)が、コーディングから要件定義に移動しただけなのです。
品質保証という隠れた制約
さらに興味深いのは、AIが生成したコードの品質保証プロセスです。人間が1日で書いたコードをレビューするのと、AIが1時間で生成した10倍の量のコードをレビューするのでは、必要な時間とスキルが全く異なります。
ここに新たな制約が生まれます。コードレビュー、テスト設計、品質検証。これらのプロセスが、新たなボトルネックとなる可能性があるのです。
第2章:AIコーディングの現実とDBRの適用
ドラム:真の制約を見極める
制約理論では、システムの制約(ドラム)を見極めることが最初のステップです。AI時代のソフトウェア開発における真の制約は何でしょうか。
多くの場合、それは「価値ある仮説を立てる能力」です。AIは与えられた仕様に対してコードを生成できますが、そもそも何を作るべきかは教えてくれません。顧客が本当に求めているものは何か、市場で勝てる機能は何か。この判断こそが、新たなドラムとなります。
バッファー:制約を保護する仕組み
ゴールドラットは、制約工程の前にバッファー(余裕)を設けることの重要性を説きました。AI時代においても、この原則は有効です。
仮説立案がボトルネックなら、その前工程である市場調査や顧客フィードバックの収集に余裕を持たせる必要があります。逆に、仮説が決まったら、AIを使って素早く実装し、検証サイクルを回す。このリズムを作ることが重要です。
ロープ:全体の同期を取る
制約理論のロープは、システム全体の同期を取る仕組みです。AI時代には、このロープの役割がさらに重要になります。
営業が「この機能があれば売れる」と言い、AIが1日でプロトタイプを作り、品質保証チームが1週間かけてテストする。このような非同期な状態では、在庫(未完成の機能)が山積みになるだけです。全体のリズムを、最も遅いプロセスに合わせて調整する必要があります。
第3章:組織プロセスの再設計
制約の継続的な移動に対応する
AIツールは日々進化しており、今日の制約が明日も同じとは限りません。例えば、今は苦手とされるUI実装も、近い将来AIが得意とする領域になるかもしれません。そうなれば、制約はまた別の場所に移動します。
この継続的な変化に対応するには、組織自体が柔軟である必要があります。固定的な役割分担ではなく、制約の移動に応じて人員を再配置できる体制が求められます。
小さなバッチサイズの威力
製造業では、小さなバッチサイズが在庫を減らし、問題の早期発見を可能にすることが知られています。ソフトウェア開発でも同じ原理が適用できますが、ここに重要な前提条件があります。
小さなサイクルを実現するには、強固な品質保証の基盤が不可欠です。具体的には、包括的なテストコードと、それを自動実行するCI(継続的インテグレーション)環境です。これらがなければ、小さなバッチは品質の崩壊を招くだけです。
ここにAI時代の勝者と敗者を分ける分水嶺があります。過去10年間、テスト自動化やCI/CDに投資してきた企業は、AIの恩恵を最大限に受けられます。なぜなら、AIが生成したコードの品質を即座に検証し、問題があれば素早く修正できるからです。
一方、テスト文化が根付いていない企業は、AIを導入しても混乱を招くだけです。AIが1時間で書いたコードを、手動で1週間かけてテストしていては、バッチサイズを小さくする意味がありません。
3ヶ月分の要件をまとめて定義するのではなく、1週間分の小さな仮説から始める。AIで素早く実装し、自動テストで品質を担保し、顧客の反応を見て、次の1週間の計画を立てる。この高速サイクルは、テストとCIという基盤があってこそ実現できるのです。
プロダクトマネジメントの進化
制約が要件定義や意思決定に移動したことで、プロダクトマネージャーの役割が決定的に重要になります。彼らは新たなドラムバッファーロープの設計者となる必要があります。
優先順位付けの頻度を上げ、小さな実験を継続的に回す。失敗を恐れず、学習を重視する。これらは単なるアジャイルの実践ではなく、制約理論に基づいた合理的なアプローチなのです。
第4章:品質という新たな挑戦
見えない在庫:技術的負債
ゴールドラットは、在庫が現金を食いつぶす悪であることを示しました。ソフトウェア開発における在庫は、未リリースの機能だけではありません。技術的負債という見えない在庫も存在します。
AIが生成するコードは、しばしば重複や冗長性を含みます。これらは短期的には問題になりませんが、蓄積すると保守性を著しく低下させます。定期的な棚卸し(リファクタリング)が必要な理由がここにあります。
メトリクスによる制約の可視化
制約理論を実践するには、どこがボトルネックなのかを可視化する必要があります。コードカバレッジ、循環的複雑度、ビルド時間、デプロイ頻度。これらのメトリクスは、システムの健康状態を示すだけでなく、次の制約がどこに現れるかを予測する手がかりにもなります。
特に重要なのは、これらのメトリクスをAIにフィードバックすることです。「このモジュールの複雑度が高すぎます。シンプルに書き直してください」という指示により、AIも制約の解消に貢献できます。
第5章:人とAIの新しい協働モデル
エンジニアの役割の再定義
制約がコーディングから移動したことで、エンジニアの役割も変化します。彼らは、もはや生産ラインの作業員ではなく、生産システムの設計者となります。
どのようなアーキテクチャにすれば保守性が高まるか。どのようなテスト戦略を取れば品質を担保できるか。これらの判断は、AIには任せられません。人間の経験と洞察が、新たな付加価値となります。
チーム構成の最適化
制約理論に基づけば、チーム構成も見直す必要があります。制約となっている工程に最も優秀な人材を配置し、その前後の工程は自動化やAI活用で効率化する。
例えば、仮説立案が制約なら、最も経験豊富なメンバーをプロダクトマネージャーとして配置し、実装はAIとジュニアエンジニアの組み合わせで対応する。このような柔軟な人員配置が、全体最適につながります。
第6章:リスクと対策
過度のAI依存
すべてをAIに任せようとすると、新たな制約が生まれます。AIの判断待ちがボトルネックになったり、AIが生成したコードの理解に時間がかかったりします。
対策は、人間とAIの適切な役割分担です。創造的な判断は人間が、定型的な実装はAIが担当する。この分担を明確にすることで、それぞれの強みを活かせます。
品質の低下
高速化を追求するあまり、品質が犠牲になることがあります。これは、制約理論でいう「局所最適化の罠」です。
全体最適を維持するには、品質メトリクスを常に監視し、一定の基準を下回らないようにする必要があります。「速く作れるが、バグも増えた」では、結局手戻りが増えて全体のスループットが低下します。
おわりに:制約を味方にする
ゴールドラットは、制約は悪ではなく、改善の機会であると説きました。AI時代においても、この原則は変わりません。
コーディングという制約から解放された今、新たな制約と向き合う必要があります。それは要件定義かもしれませんし、品質保証かもしれません。あるいは、組織の意思決定スピードかもしれません。
重要なのは、これらの制約を特定し、継続的に改善していくことです。AIは強力なツールですが、それを活かすも殺すも、私たちの制約に対する理解と対応次第です。
制約は常に移動します。しかし、制約理論の原則は不変です。この原則を理解し、実践することで、AIという新しい道具を最大限に活用できるはずです。ボトルネックを見つけ、そこに集中し、全体を最適化する。このシンプルな原則が、複雑な変化の時代を導く羅針盤となることでしょう。