1.辛かった新人営業時代
今は40代なかばでもうそろそろ50歳が見えてきました。今思うと、年月が経つのは早かった気もします。
辛いときはすっごい長いトンネルを歩いている感じがしてました。
でも、それを抜けて振り返るとあっという間だったと感じることもあります。(年取って記憶力が衰えてるからそう思うのかも)
この記事を投稿したのは2025年5月初旬です。ちょうど、新入社員が1ヶ月経って、GWに入って一息つく頃でしょうか。
自分が新人だったときのことを記録として投稿してみます。
正直、自分の新人時代は辛かったです。今は、プログラマーやSEとして働いていますが、新入社員として就職したのはソフトウェア受託開発の営業でした。今思い出しても二度と戻りたくない時期です。ただ、その時期に得たものは今でも活きています。
辛さの原因は、ソフトウェア開発に特化したものではなかったように思います。
2.新人営業時代の辛さ
おそらく業種、職種を問わず新人として誰もが感じる辛さがあると思います。また、営業ならではの辛さもあると思います。それを列挙してみます。
新人営業時代の辛さ
- 何をしてよいのか分からず上司に注意される
- タスクを短い期間で終わらせられない
- 営業用のプレゼン資料をつくろうとするがどうしてもうまくつくれない(AIも当時はなかった!)
- 人脈が少なすぎて案件をもらうことができない
- 自分の会社は外回り営業とか禁止だったので、営業の方法が限定されていてどうしていいかわからない
- 営業で成果はでないからということで、開発案件の議事録とかとれと言われるけど、前提知識内からチンプンカンプン(でも、レビューで怒られる)
- あんまり成果がなかったので上司や上の社員にいびられる
多分、私の就職した会社が小さくて特殊だったことに起因する辛さもありました。
いくつかの点について補足してみます。
a. 飛び込み営業をしてはいけない!
営業なのに、外回りしちゃいけないとか結構きびしいなと思いました。でも、1ヶ月だけを飛び込み営業をさせてほしいと社長に直談判しました。社長は結構話しが分かる方で、1ヶ月だけ飛び込み営業を許可してくれました。ちょうど、新人になった4月からこの5月あたりだったと思います。
私が就職したのはある地方都市でした。その地方都市の商店街とかビルを飛び込み営業しました。
入ったらいきなり断られることが大半で、たまに遊び半分なのか、好意か分からないけど話を聞いてくれる人もいました。
一番怖かったのが、ある事務所に飛び込んだとき、ヤのつく職業みたいな人がでてきて、「✨️にされるかも!」と思いました。でも、入ったからには営業しようと思い、ソフトウェア開発の営業ですと訪問理由を伝えました。そうすると、ヤのつく職業みたいな人が「ソフトウェア??HTMLとか分かるんじゃ!うちは自分でつくっとるんじゃあ!」と怒鳴られて追い返されました。当然の結果なのですが、✨️にされなくてよかったと思いました。ただ、HTMLとか知ってるんだあと思って、変な感心をしたのを覚えています。
営業がメインの会社は、新人に飛び込み営業や名刺をとらせにいくと聞いたことがあります。私が就職した会社は飛び込み営業禁止でしたが、飛び込み営業については、効果のあるところもあるのかもと思いました。営業受けた方は迷惑だったかもしれなくて、申し訳ないのですが、個人的にはかなり知らない人に話しかけたりする度胸はつきました。
個人的には、もう飛び込み営業とかはしないのですが、絶対止めたほうがいいとかは正直言いきれないところがあります。したくない気持ちはよく分かります。
さて、営業の成果は、50-60件周って、受注は1件だけでした。それでも、新人の自分にとっては、結構、嬉しかったのを覚えています。ただ、やっぱり飛び込み営業ではなかなか大きな案件はとれず、会社の方針は間違ってない気もしました。その後、独立してからは、飛び込み以外の営業をするようにしました。
ちなみに、フリーランスや1人法人の営業については、現在は楽になりました。エージェント使えば、簡単に仕事してくれるので昔とは大違いだなと思います。
受注した案件は、ギャンブルに関する予想サイトのCMSでした。私の会社が当時、CMSを開発して売れと言われたので、それをつかってサイトをつくる案件でした。結構いけてないCMSでちょっと申し訳ないなと感じたのを覚えています。
私が新人営業だったのは2000年前半でしたが、すでにその頃にはWordpressなど今でも使われている有名なライブラリがありました。当時はあんまり情報検索とかしてなかったので、全然知りませんでしたが、知ってたらWordpressとか売りましょうよといってかもしれません。
b. 企画書やプレゼン資料がうまくつくれない
私が就職した会社は、ただパッケージを販売するだけでなく、開発案件も受注していました。
開発案件の場合、営業が企画をしてプレゼン資料を作っていました。
上司がとってきた案件をフワっと説明して、あとはフォローとかなく、丸投げで資料をつくれといわれました。
技術もあまり知らないし、初めてなのでどうつくっていいのかよく分かりませんでした。
当時、インターネットは使えたので、サンプルになるようなものを見ながら見様見真似でつくったのを覚えています。ただ、やっぱり内容がしょぼかったと思います。
やっぱりいろいろ知ったり、経験してないと企画書やプレゼン資料はつくれないなと痛感しました。
プレゼンはなんとか上司がフォローしてくれてそれなりに終えられました。上司は鬼畜みたいな人ではなかったので、丸投げして罵倒するということはなかったです。それは幸いでした。
この経験から、自分で開発してみるとか、調べ物をするという習慣が徐々についていった気がします。
c. タスクを短い期間で終わらせられない
これは、新人あるあるだと思います。でも、いろいろな現場をみてると、新人だけでもなさそうな気はしました。それについては、以下の記事に関連したような内容を投稿しました。
新人のときは、知識が不足してたり、判断基準がないのでなかなか成果物を短い期間で作るのは難しいです。こればかりは、徐々に知識をみにつけて、判断基準を覚えていく必要があると思います。
今は、AIで知識を集めたり、判断の参考情報を得ることもできます。なので、昔よりはタスクを早く済ませることができると思います。ただ、AIを使ったとしても、その内容を理解しておくことは必要で、生成物の内容の信頼性を担保する必要があります。そこまでして初めてタスクは完遂できると思います。
AIを使いこなすにも知見がある人とない人では生成物やその後の行動に差が生まれます。これは仕方ない気もします。
ちなみに、AI使えば仕事が早くおわるとはいえ、情報漏洩、著作権侵害などいろいろと問題もあるので、そのあたりに配慮したうえで使うのを忘れてはいけないなと思います。これは新人に限らない話ですが。
d. 成果がでないと社内の風当たりはきつい
これは営業に限らないかもしれませんし、会社の風土によるかもしれません。
成果がでないときは、上司や周りの先輩とかのあたりはなにげに厳しかったと思います。
でも、成果でてないから言い返せないし、結構辛かったのを覚えています。
e. オープン、かつ、完全出来高制の評価システム
私が就職した会社は、完全出来高制の会社で、タスクにポイントがついていました。達成するとポイントがもらえて、それがボーナスの金額になっていました。毎月、社内定例があり、そこで配られる社内広報に社員すべての獲得ポイントが記載されていました。
自分のポイントの低さを毎月見られたり、見せつけられるのは厳しかったですね。新人でも開発者やテスターは結構ポイントがあって、やはり作るスキルが有る人は強いなと思ったのを覚えています。
営業の上司は、どうやって仕事をとっているのかわからないけど、毎月、どこかからか案件を取ってきていました。飛び込み営業禁止の会社なので、普段は会社にいることが多く、何してるのかよく分かりませんでした。
上司は、帰るのは早く、毎日のようにどこかに飲みに行ったりしてるようでした。私はそれをみて、飲み屋になにか出会いがあるのかなと思って、少ない給料をつかって飲み歩いていました。
結果ですが、別に仕事になるようなことはなかったです。ただ、貯金がなくなって、その後、独立してお金がなくて、痛い目を見たのをよく覚えています。
以上、私が新人営業時代に辛かったことです。他にもあったかもしれないですが、20年前のことなので結構忘れてしまいました。でも、辛かったことは今でも覚えていて、心底2度と戻りたくないと思っています。
ただ、よい思い出もありました。
f. 支えあった仲間
とにかく、新人1年目はめちゃくちゃ辛かったです。社内でも上司や先輩にいろいろ言われたりしましたし、自分自身も成果が出せなくてはがゆかったのをすごく覚えています。
幸い、同期の社員はみんなよい人で、よく呑みにいったり、スノボーとかして遊んでました。誰かが仕事で落ち込んだりしたら、呑みに誘ったりして、支え合っていたのを覚えています。
今でも、同期の人達とは時々呑み会をしています。
そういえば、めっちゃ上司に怒られて凹んだときは、お腹いっぱい食べてすぐに眠ったりしてました。あと、当時よく聞いてたのが、チャゲアスのPRIDEでした。折れそうな心を支えてくれる歌でした。
精神的には同僚に支えられながら、なんとか1年間耐えました。同僚がいなかったら1年持たなかったかもしれません。仲間は本当に宝だと思います。
3.辛かった新人営業時代を脱出
a. 暗黒時代を脱出する転機(ある大学教授との出会い)
私が新人営業として辛い時期を過ごしたのは1年ぐらいでした。1年ぐらい経った頃、ある転機が訪れます。
私は、大学院の修士課程を卒業しています。大学院時代、同期や先輩と講義や飲み会でよく討論をしていました。就職して1年ぐらいたったとき、大学院のときの先輩から連絡が来ました。
先輩は、大学院にいて研究者としての道を歩んでいってるようでした。私は、修士課程で自分には向いてないと思って早々に就職をしました。
その先輩が、私が住んでる街にたまたま来る機会があり、会って紹介したい人がいると言われました。この人との出会いが私の人生を大きく変えていきます。
休日、先輩が指定する場所で待っていました。そうすると、先輩は年配のおじさんと現れました。この年配のおじさんは大学教授でした。ITについて詳しく、Webサイトを運営したり、研究室内のLANを自分で構築したりしてました。
2000年はじめなので、今ほど年配でITに詳しい人は多くいなかったように思います。
どうもこの大学教授は、ITの手伝いを探しているらしく、それで私に白羽の矢が立ったようです。この教授は私とは全く違う研究分野でしたが、私の論文をみてとても興味をもってくれました。ここから、この教授との付き合いが始まり、私の仕事上の動きがガラッと変わっていきます。
b. 案件とってくると社内の風当たりも和らぐ
教授は活動的な人で、ご自身でいろいろな研究会を作ったり、学会にチームを作って参加していました。私は休日に学会があるたびに呼び出されて、手伝いをしにいっていました。
学会が終わると大体懇親会があり、その懇親会で多くの大学教授と知り合うようになっていきました。当時はITの必要性は分かるけど、どうしてよいのかわからない大学教授もたくさんいました。そして、そこから案件をもらうことも増えてきました。
私も上司と同じく、平日はあまり営業しないのだけど、案件をとってくるようになります。それでも、平日も自分でシステムの企画を考えて、それを使ってくれそうなところに電話して、営業をかけにいくこともありました。その当時は、案件にならなかったけど、後に聞くと、あるお客さんが私の資料をみて連絡をしたそうです。もう辞めてたから私は対応していませんが。
とりあえず、案件とってきてたら、風当たりも強くならず、文句は言われなくなりました。
c. 短い出会いでどれだけ自分をアピールできるか
新人1年目は成果もでず辛い時代でしたが、なんとかそれを打破するため情報収集したり、会社の人の動きをみて無意識にいろいろと学んでいたのかなと思います。
小さい会社でしたので、至れり尽くせりの教育とかはなく、見ながら芸を盗むというスタイルで物事を覚えていきました。
そして、技術を知り、社会一般の人の動きを観察するようになると、どんなシステムをつくり、どこに売り込めばよいかもだんだんわかってくるようになりました。
案件獲得で重要なのは、人脈の強さなのですが、いくら人と出会っても提案力、アピール力が弱ければ仕事はもらえません。出会った人の課題を把握し、それに対応するシステムを提案するスキルが必要だと思います。
ほんの少しの出会いで、どれだけ自分をアピールすることができるのかが大切だと学びました。
d. 案件を獲得すると社内でも仕事を頼まれる
私が獲得した案件は大きくなかったですが、それなりに成果がでるようになると、周りの評価も変わってきます。特に、社長にはかわいがってもらっていました。社長がある案件の話をしにいくとき、ついてこいと言われました。
その案件は、Webサイトをつくるというものでした。最初は小さい案件だったのですが、そこから基幹システムの発注へと繋がり、担当案件の規模が大きくなっていきました。
多分ですが、小さい動きとはいえ成果をあげている私に、社長は目をかけてくれて案件を任せてくれたのだと思います。その社長とは辞めてからもご自宅に食事をしに行かせていただいたり付き合いがあります。自分の人生のビジネスの師匠と思っています。
こうして1年間の暗黒時代から抜け出せました。
4. 退職し、フリーランスエンジニアとして上京
a. 自分で開発を始める
私がいた会社は小さい会社だったので、開発メンバーがサンプルを作ってくれるというのはなかったです。少なくとも社内予算を持たない私にはなかったです。上司は予算をもっていたので作ってもらてっているようでした。
でも、動くものがないと、聞いている人の心を動かすのは難しいと感じました。
そこで、自分でつくってやろうと思いました。企画書を書いてから、それに関するシステムのポイントとなる動きの部分だけつくりました。当時、私の会社は今で言うSuicaのような非接触カードを絡めたシステムを売ってこいといってたので、その機材をつかったシステムを自作して営業していました。
SDKがVB6だったので、その本を買ったり、当時は情報も少なかったネットの情報をみながら、アプリを作っていました。大体、車のなかでプログラムして、それをもってお客さんのところに行って企画書を見せながら、アプリをみせていました。
こうして、開発者としてのスキルを身に着けていき、営業もなんとなくできるようになりました。
実は、会社に採用されるとき、数年したら独立しますと宣言していました。そこで、宣言通り独立しようと思いました。当時、社内もゴタゴタして、ずっといたい雰囲気でもなかったのもあります。
作ることもできるし、なんとなく営業もできるから独立しようと思いたち、入社して2年目の夏ぐらいに辞表をだしました。社長に辞表をだすのがとても心苦しく、しても意味ないけど、食事に誘って私が奢ったのを覚えています。
でも、社長のことは嫌いじゃなかったので、その後もお付き合いがあります。
b.上京資金がない!
会社員時代に東京出張もさせてもらっていたので、なんとなく東京のことをしっていました。東京で出張しているときに、ビジネスするならやはり東京がいいなと思っていたので、独立したら東京へいくことにしました。
ただ、東京へ行くにしても仕事ないと困るし、呑み歩いてたので貯金がなく、すぐには行けませんでした。
とりあえず、上京するための資金集めをすることにしました。
とにかく、いろんなバイトをしてました。
塾講師、家庭教師、ライブの警備品、事務所のネットワーク構築、倉庫の荷運び、そして、プログラマー。
一方で、福祉系の通信大学も通っており、そこで実習のために児童養護施設にもいってました。
貧乏暇なしな感じでした。
お客さんだった会社で、プログラムのバイトをしていました。そのお客さんが新しい会社を東京で設立して、そこでSNSをつくるから手伝ってほしいといわれました。
まさに、渡りに船。
これはチャンスとばかり、「ぜひ、お手伝いさせてください!!」といって、上京することができました。
バイトも年度末まではして、ちょうど、3月末に上京しました。
ちなみに、このとき、私1人ではなく、前職でテスターをしてたアルバイトの子も連れていきました。
その子は、頭はいいのだけど、高校中退して、起業するのが目的だといってました。そんな話を呑み会でしてたから、「今度、東京行くことになったのだけど、ついてくる?」と誘ったら、躊躇もなく「行きます!」といってついてきました。
なんでもアピールしておくべきですね。私みたいな変な人がいて、声をかけたりするんで。
mixi、GREEなどSNSがブームだった時代にフリーランスエンジニアになった
私が独立したのは2006年ぐらいでした。当時は、mixiやGREEがでてきてWeb業界は空前のSNSブームでした。Twitterも日本で徐々に普及していた時代です。よくシステムダウンしてクジラのイラストが表示されてました。今ではありえない懐かしい時代です。
上京してから私の開発者として経歴がはじまりました。また、当時、mixiでIT系の人たちのコミュニティを作って、毎月のように呑み会してました。
今でも、そのとき出会った人とは付き合いがあります。大半はどうなったかわかりませんが。
先日、mixiにログインしたらまだそのコミュニティがあってびっくりしました。管理者は私ではなく、別の人にかわっていましたが。もう、mixi自体が廃墟みたいですが、コミュニティの動きも全くないみたいですね。
懐かしかったからちょっとコメントしました。
あれから20年ぐらいWebシステムの開発を中心に、プログラマーやSEとして仕事をしています。そこで見てきた技術変遷を以下の記事にしてみました。
というわけで、私の辛かった新人営業時代は終わり、いろいろと自分でできることも増えて、だいぶ仕事が楽しいと思えるようになりました。
40代なかばで、AI駆動開発時代を迎えて、まだまだ勉強を続けて、いろいろと挑戦しないといけないなと感じています。
5. 営業時代から開発者になった今もしていること
最後に、記事のタイトルについて書いてみます。
私がソフトウェア開発業界に入った入口は、受託開発の営業でした。
最初からソフトウェア開発者としての道を歩みだしたわけではないです。
ただ、営業であったときに学んだことは、プログラマーやSEをしていても活かされていると思います。その内容を列挙してみます。
営業から開発者になってもしていること
- 新しい技術や社会動向をチェックする
- 仕入れた知識を形にする
- お客さん(ユーザー)の立場で考える
- 人や現象を観察して、論理的に解決方法を考える
- 人脈、仲間づくり
他にもある気がしますが、ぱっと思いつくのはこのあたりです。
以下、補足です。
a. 新しい技術や社会動向をチェックする。仕入れた知識を形にする。
新人営業のとき、上司から「会社のWebサイトに毎日、新しいニュースを掲載して」と言われました。最初はよくわからないけど、仕事なので毎日ネタを探して、記事を書いていました。
そのうち、段々、業界や技術のことも分かるようになってきました。そういえば、上司の営業についていったとき、いろいろと新しい技術の話をしてました。こういうトークしてたらこの人詳しそうって思ってもらえるから、仕事も任せてくれるよなと感じたのを覚えています。
何より、自分で営業するようになってから、「こういう課題はどうやって解決するのか?」というように、目的意識をもって調べ物をするようになりました。やがて自分で開発するようになると、もっと具体的な解決方法を探すようになりました。
上京してから、いろんな現場へいくと、自分よりすごいプログラマーに会いました。その人達が、いろんなツールやライブラリを使っているのをみて、「これは、真似しなければ」と思いました。
それから、もう日常的に朝になると技術ニュースをみたり、移動中もふと疑問に思ったら調べるようになりました。
営業時代に、上司がタスクとして与えてくれたことが、今や自発的に行う趣味になっています。
こうして、Qiitaに記事をかくのもその頃の延長なのだと思います。
ときどき、ただの開発者ではなく、コンサル的な仕事もするのですが、そのときにこうした調査した内容はかなり活かされます。独立してから、こうしたトークをもとに、何度か大型案件を受注したこともあります。
b. ユーザーの立場で考える
営業しているとき、なんとか営業成績を上げたいから、どうしたら発注してもらえるかすごく考えました。
訪問時の振る舞い、電話、プレゼンなど事あるごとに相手がどう受け止めるか、どうしたら自分のサービスを欲してくれるかを考えていました。
それがすべてうまくいったことはありません。ただ、そうやって相手の立場で考えるというのが癖になりました。
これは、開発者になっても活かされました。特に、SE業務しているときに役立ちました。
ITがわからない人にどうやって伝えたらわかりやすいのか、どうやったらユーザーから情報を引き出せるかなど、相手の立場で考え問題解決をします。
相手の立場に立ったからと言って、いきなり自分で答えはわからないのですが、ユーザーからしたらシンパシーを感じてくれるのか、話しやすくなるのは確かです。話しやすくなることで、いろいろな情報を引き出すことができて、比較的円滑にタスクをこなしていくことができます。
"相手の立場なって考える=当事者意識を持つこと" で、課題や解決方法もかなりクリアになる気もします。そして、ユーザーが協力的になっていくことが多いと思います。ちなみに、これに関して関連する記事を書きました。ユーザーの事を考えて動く大切さを感じたエピソードです。
c. 観察と論理的思考
新人営業時代、とにかく、自分の力不足を感じたので、仕事ができる人の真似をしようと思いました。いろいろな場所で人を観察して、何が自分と違うのか、何が評価される行動になっているのかをよく観察していました。
また、自分がなぜできないのか、そして、どうすればできるようになるのかを論理的に考えるようになりました。このように、自分の課題を解決するために観察と論理的思考をしていました。
そして、案件がとれるようになってくると、今度は自分ではなくお客さんとなる人を観察し、そこへのアプローチを論理的に考えるようになりました。
開発者になってからは、自分というよりも、ユーザーの課題を解決するために観察と論理的思考をするようになりました。ユーザーが何を課題としているのかを観察により把握する。そして、そこで得た情報を論理的に考えて解法を考案します。
d. 人脈・仲間づくり
辛い営業時代を救ってくれたのは人脈と仲間でした。振り返ってみると、会社に入ってすぐの頃、ちょっとした自分への驕りがありました。大学院とかいっているので、会社のことなんか研究に比べれば大したことないだろうというフザけた考えが少しありました。しかし、社会人が始まったら、この驕りはあっという間に壊されました。
とにかく自分の力不足をすごく感じました。仕事の内容がやや大きくなってくると、他人の助けをもらった方が早く済ませます。営業においても同じです。誰かの紹介の方が、商談は早く進みます。
1人の限界、ちっぽけさを営業時代に痛感しました。そして、自分を救ってくれたのもやはり、人脈でした。そして、物理的・心理的に支えてくれたのは仲間でした。
これは、開発者になった今も変わりません。
とくに、今はフリーランスに近い働き方をしているので、自分で人脈や仲間をつくらないといけません。
現場で人間関係をつくるのはもとより、いろいろと外部でもイベントをしながら人脈と仲間作りを続けています。
年齢が高くなればなるほど、人脈は大切だと思います。若いときは、売り手市場だからエージェントにお願いすれば仕事はすぐに紹介してくれると思います。
ただ、年齢が上がるとエージェントに頼んでもうまくいかないケースも聞きます。日頃からの人脈、仲間づくりをしておくことで、人生の後半のバックアップになる気もします。
そういえば、営業時代の上司がこういってました。
若いときは営業しても全然成績が上がらなかった。でも、若いときに付き合った人が出世したりすることで、その人が自分を助けてくれることがある。
私は、大学院時代の先輩に助けられた経験があります。今でも、いろいろな知人に助けられています。
開発者として人脈や仲間がいることのメリットは、いろんな現場の情報を聞いたり、相談に乗ってもらえること。また、チーム開発をしたり、勉強会できることでしょうか。今なら、AIで勉強すればいいのでしょうけど、実際の現場の情報と当たり障りのないネットの情報とは質が違う気もしています。
6. さいごに
時期的に新人が一息つく頃かなと思い、自分の新人時代の話を書いてみました。
ほんと社会人一年目は辛い!
それは間違いない!!
でも、できる範囲で努力をしつつ、仲間や友達と支え合い、耐えていくとなんとなく追い風になる時期がくる気もします。だめだなと思ったら、最初に就職した業種や会社を変えるのもいいと思います。
とにかくもがきながらも動いていればきっと自分に役立つものが見える気もします。
私は就職氷河期世代です。私が20代のとき、ソフトウェア業界は3K職場といわれていました。今みたいにキラキラした感じはなく、ブラック企業は多かった気がします。今でもあるのかな?
ネットの記事では、「3Kではなかった」という記事もありますが、それは大手企業の一部ではないかと思います。私自身、いろいろ見てきました。本当に徹夜、帰れない、休日出勤、300時間労働とかありました。
今は段々、そういう現場もなくなってきたのかもしれないですね。なので私が若い頃よりは辛さの内容もかわっているのかもしれません。
これからAI駆動開発の時代になり、経験者ですらどうなるのか分からない時代。
もしかしたら、今の新人と経験者との差は昔よりは縮んでいるのかもしれないです。
AIを活用し、ネットを使い、課題を早く解決していけば、今までの人より早く成長していけるかもしれないと感じています。
7. おまけ:AI・AIX企業に関心がある人向けのわいわい会(意見交換会)
知り合いの社長が以下のイベントをします。
これから、AIシステム企業、または、AIを導入してこれまでになかった経営や事業をするAIX(AIトランスフォーメーション)企業が増えていくと思います。
こうした企業をつくったりするにはどうしたらいいか?AIを業務にどういかしたらよいのかなど事例や意見を交換するイベントです。
AIシステム企業の動き、または、IT企業のAI駆動開発導入事例などシステム開発者向けの話もあるそうです。
興味があれば参加してみて下さい。私も参加します