学ぶことは大事だけれど、
「なにを学ぶのか?」
という、言わば『学ぶことの前処理』も大事だなぁと思いました。
最近私はSQLを勉強しています。
「ビッグデータを扱えるようになれ」と会社に言われて勉強を始めました。
「これくらいは解けないといけない」とSQLの問題を渡されましたが、取っ掛かりすら掴めませんでした。
私はこれまでまともにSQLを勉強したことがなかったので、Progateから勉強しました。ちょうど1週間前です。
Progateは2日ほどで終わり、次はもう少しレベルの高い、キリンが描かれたSQLの本を始めました。
SQLの本なので、CREATE DATABASEやDROP DATABASEなど、ある程度網羅的に書かれています。
私はせっかく買ったのでまじめに参考書の頭から始めたのですが、CREATEやDROP, UPDATEはやらなくていいのでは?と思いました。
なぜかというと、もともと私に求められていたスキルは「ビッグデータを扱えること」であり、CREATEやDROPではなく、極論を言えばSELECTしか求められていませんでした。
また、私はなにかを知りたいと思ったとき、その仕様や原理、言わば低水準のところが気になってしまいます。
「いまのSQLをやったら基本的なSQL文は理解できるはずだから、その次はさらに深いSQLの文法や原理を理解しよう」と思ってしまいました。
実際そのような本を探すために本屋に行って、良さそうな本があったのでレジまで持っていくところまでやりました。
しかし、「SQLの原理を理解することを、俺は求められているのか?」と思い、本を戻しました。
私が求められているのは、SQLの、CRUDでいうところのReadのみで、また、極論を言えばSQLの原理なんか知らなくてよくて、それよりもビッグデータを扱う練習をすることを求められています。
これはSQLに限った話ではないと思いました。
SQLも、Pythonも、bashも、すべて奥が深く、その分野について完璧に理解することはほぼ不可能です。
ではどうするのか?と考えたときに、「なにかを学ぶ前に、なにを学ぶのか、なぜ学ぶのか」などを考えることが大事だと結論しました。
これを「学ぶことの前処理」と今後自分の中で呼ぼうと思います。