皆さんはじめまして。
リブセンスのコーポレート部門に所属しているMotoi_Nと申します。
これまで毎年アドベントカレンダーを更新し続けた、リブセンスの誇れるエンジニア陣へ畏敬の念を込め、非エンジニアながらQiita投稿に挑戦することにしました。
##0. 私と技術
思いかえせば、社会人になって一番最初に取った資格?は、SAP R/3の認定コンサルタントでした。そこではABAPを使い、別の案件ではSQLでオラクルのDBをいじくりまわし、まだなんかやりたいと当時最先端だったオブジェクト指向を勉強してJAVAを扱う。
そしてそこからさかのぼる学生時代の自分の研究は、COBOLなくしては実現できないものでした。
もっとさかのぼると自分の技術との原点は、幼き頃にマリオを簡易的なBASICで動かしたことにあったように思います。
しかし、、諸行無常。時の流れとははかないもので、当時の自分の技術は陳腐化し、あるいは自らの記憶も薄れ、今となっては昔取った杵柄にすらなっていない現状です。
何が言いたいのか。
要するに、学ぶことや身に着けることそのものは重要ではなく、学び「続ける」こと、常に自分をアップデートしていくか、どう継続していくかが常に問われているのだと思います。
このエントリでは、技術を学び「続ける」ことについて、ひたすら書いていきたいと思います。ではではご笑覧ください。
##1. はじめればいつかは終わる。はじめなければ終わらない。
「何から始めればいいのか・・・」
このエントリの話です。
書きたいことは散発的に思いつくものの、具体的にキーボードの前に向かうと何を書いてよいかわかりません。というより、相当の勢いをつけないとキーボードに向かう気すらしません。
ただ。。。書き始めなければいつまでも終わらない。書き始めればいつかは必ず終わる。
当たり前のようですが、事の本質でもあると思います。
物事は始めることが最も困難で、始めなければ決して終わりません。でも始めさえすればいつかは必ず終わります。
いきなり語義矛盾ですが、技術を学び続けるためにはまず学び始めることが重要です。
まずそれが第一歩だと思います。
2. 「この技術、役立ちますか?」という愚問
技術に限らず、あらゆる学習においてよく見られるのは、
「やって意味あるの?」
「これやって役に立つの?」
といった問いかけです。
自分が学習するときだけではなく、その逆の立場にあるとき、自分が教える立場で学習してもらう立場にいるときでも、この手の問いにはいつも返答に窮します。
ただ、、、これらの問いは、立て方からして愚問です。
それはなぜか?
なぜならば、役立てるも役立てないかも自分次第だからです。
これは精神論を言っているわけではなくて、論理的帰結です。
技術が役立たないと思ったら、その技術を使いません。そうなるとますます陳腐化していきます。でも役立てようと思ったら使います。少なくとも役立てようとするふるまいをする。
そしていつかその人の血となり肉となる。大いに役立っている状態です。
技術に限らず、数学でもそう、英語でもそう。ロジカルシンキングでもそう。役立つかどうかを考えるのは意味がなく、実際に役立つと信じて、使うかどうかです。
(似た話ですが、会社組織でのリーダー職へのアサインメントなどもそうです。どんなリーダーでも常に最初は初心者です。できるかできないかなんてやってみないとわからない。
では何で分岐するかというと、自分ができると信じられるかです。できると信じて、無手勝流でもリーダーと信じるふるまいをやる人は、自分の足りないところにおのずと気づく。それはリーダーとしてふるまうからこそ見つかるものです。そういう振る舞いを遠慮してできない人は結局いつに立ってもトライアンドエラーが進まない。つまりリーダーに適性もスキルも何の関係もなく、すべては自分次第です)
3. 諸行無常の先にあるもの
世の中の本質は諸行無常です。栄枯盛衰は世の常です。技術は常に陳腐化します。成長とは学んだ事の陳腐化に心を折られないこととの戦いでもあります。
でもよく考えてみると、世の中にある発想の大部分は、何もない状態から考えたというより、既存のものの組み合わせであったり、既存の仕組みにプラスアルファを加えたものだと思います。
そもそも新しい発想に限らず、自分が知らないものは考えられません。報告もできませんし、意思決定もできません。
たとえば英語学習とかが典型ですが、そもそも知らない単語は聞き取れません。語彙もないのにリスニングばかりやっても時間の無駄です。
陳腐化する技術も寝かせて熟成しておけばいつしか役に立つ日が来ます。確かに諸行は無常ですが、世の中に意味のないものなど何もありません。少なくともそう信じることが大事です。
むしろ陳腐化しているから普及するわけで、陳腐化と普及は構造的に同義でもあります。
##4. 教わることと教えること
自分で学ぶことと、人に説明すること。これらはワンセットだと思います。
私は土日にビジネススクールで講師をやっているのですが、「お金を払って教わる」のと「お金をもらって教える」のだと、学びの質やスピードにおいては、後者に軍配が上がるように感じます。
学んだり教わったりすることって、お客さんモード、受け身になりがちだと思うんです。でもそれを人に説明したり教えるとなった時に、一気に頭の働きが変わってくるように感じます。
- 聞いている皆はちゃんと理解してくれているのだろうか?
- この時間を有意義なものととらえてくれているのだろうか?
- せっかく聞いてもらうのなら、役に立ったと思ってもらいたいなあ。
- 質問対応もちゃんと考えないと。。。
- いまここでどんな説明をしたらうまく伝わるのだろうか。
- ・・・
そんないろんな思いが交錯した、ある種のプレッシャーが頭を働かせ能動的にしていき、自分のわかっていること、実はわかっていなかったことを明確にしてくれます。
教えることが一番教わること、つまり学習に通じます。
5. 可能性を信じない
そして最後に、自分自身をメタ認知できるかということでしょうか。
よく自分の可能性を信じろ!みたいなことを言われます。
私は、自分の可能性を信じる事より自分の限界を知ることの方が何倍も大事だと思います。
どんなに頑張ってもできないものはできません。もちろんチャレンジすることは重要だし、松下幸之助翁も「私は失敗というものをほとんどしたことが無い。なぜなら成功するまでやり続けるからだ」という趣旨のことを言っていて、それはそれとしてわからないではない。
ただし一方で我々のような凡人が、この名言を真正面にとらえすぎてしまうと、自分の限られた資源の大いなる浪費に終わってしまう場合も少なくないと思います。
思いついたら挑戦するのも大事ですが、その過程で限界をしっかり見極め、その限界を物差しに、ダメだと感じたらこれまでの投入資源を捨てて、次の技術にジャンプする勇気を持つ事が大事です。
6. 終わりに:My Life Is My Message
大体以上です。
これまで述べてきた学び方なるものは、いずれも能力ではなく、やるかやらないかの問題です。誰にでもできます。ただ、やるかやらないかといっても、学び「続ける」というシンプルなことを、飽きもせず繰り返すことはとても困難です。
取り組むことが難しいことこそつねに王道しかない。単純なことの地道な繰り返ししかない。効率的に答えに向かわない癖を自分自身にしつけること。結局のところ、それが一番効率的なのかもしれません。
人間20歳を超えたら、お勉強モードでは成長できません。では何で成長できるかといえば実際に使っていく中での「修羅場」しかない。自分がいかに学習が足りてなかったのかという事に気づかされることでしかない。
そして、その中で挫折を繰り返すこと。言ってみれば挫折とは、自分の能力以上のことに挑戦した証拠であると思います。
とすると、今まで挫折(惨めなこと)を経験していないという人は、まともな勝負を避けてきたか、迎合したやり方で済ませてきたかどちらかのような気がします。自分の技術力の内枠でしか勝負してないということですね。
技術を知らない自分は恥ずかしく思えるものです。でも恥ずかしいというのは、結局「他人がどう思うか」ということであり、結局他人の感情であり、自分ではコントロールできないということでもあります。
だとすればコントロールできない他人の感情に振り回されることが、より恥ずかしいものではないでしょうか。
結局は自分自身が昨日と比べてどうだったのか、明日は今日と比べてどう成長できたのか。それだけが学習について問われる成長の軸なんだと思います。
私の理想の学び続ける生き方は、年をとっても一生懸命に学ぶ努力をしている人です。
以前のことですが、仕事で60代くらいの方と待ち合わせたとき、少し遅れてしまった私が目にしたのは、その方が待ち合わせのわずかな隙間時間で、猫背になりながらPCに向かい技術書片手にひたすらコーディングしている真剣な背中でした。
あるいは出張からの帰り、終電に近い時間に皆ビール飲んだり寝たりしている中、うつらうつらしていた私の視界に入ったのは技術書にマーカーで線を引きながら、真剣に勉強している初老のおじさんの姿でした。
なんのことない日常の光景ですが、なんだかとても背筋が伸びました。
「My life is my message」
ガンジーの言葉です。
自分の生き様そのものが、学び続けるというメッセージでありたい。
私は何歳になっても、そんな学び続けられている人生を歩んでいきたいと腹の底から思います。
メリークリスマス。