なんとか『記号と再帰』を読み終えました。内容を半分も理解できませんでしたが惹かれるものがあり、著者の続篇『言語とフラクタル』を購入してしまいました。積読を一冊減らしたのにまた一冊増やしてしまったようです。英語の論文を著者自ら翻訳したもので難しさたるや半端ないです。
「Mindは日本語で記述できる → 習得が容易、開発効率が高い」
とうのは本当かという命題に対して、反語的に日本語プログラミング言語Mindから日本語を取ってみてはどうかと発言しました。自然言語とプログラミング言語を混同してしまうと議論にならないと思えたからです。さらにややこしいことに日本人の問題があります。プログラミングを容易にするのは、母語だからなのか日本語だからなのか。
いままで自然言語とプログラミング言語と人間(日本人)は別々に考えていました。
プログラミング言語は自然言語ではない。
自然言語は人間が創造したもの。
日本語は印欧語とは仕組みが異なる。
日本語を母語とする日本人にとってはMindは扱いやすいプログラミング言語である。「Mindは習得しやすい」ということに関しては、プログラミングは別言語で習得していたので真であるかはわからないが、日本語で記述できる(考えることができる)ので開発効率は高いと証言できます。
だいたいそんな風に考えていましたが、自然言語もプログラミング言語も人間も、記号であるというパースの汎記号主義に触れて驚きました。
ならばですね、Mindの真価を確かめるのにMindのマニュアルを翻訳して日本語を母語としない人にプログラミングさせてみる必要があります。