こんにちは!
ourly株式会社という2期目のスタートアップでEM兼BEとして働いている相澤と申します。
ourlyはインターナルコミュニケーション(社内コミュニケーション)活性化を通した従業員エンゲージメントの向上を目的とするWeb社内報やプロフィール機能を提供しているSaaSです。
Qiita×Findy記事投稿キャンペーン 「自分のエンジニアとしてのキャリアを振り返ろう!」を見かけて、自分自身の現在地とここに来るまでの道のり、そしてこれからを書いてみようと思いました。この記事がどなたかの助けになったり、キャリアのヒントになったりすればとても幸いです。
ざっくり経歴紹介
時間がない方、興味ない方はこの章を飛ばしてもらっても大丈夫です
- 1992年11月 東京で誕生し、埼玉に移住
- 2015年4月 京都大学理学部卒業
- 2016年4月 京都大学大学院理学研究科化学専攻中退
- 2016年5月 株式会社PLAN-B入社
- 2020年3月 株式会社PLAN-B退職
- 2020年3月 株式会社ビットエー入社
- 2023年4月 ourly株式会社に転籍
大学時代
留年しない程度に勉強はしつつ、サークル活動に精を出していました。
理系だったこともあり、周りはほとんど院進するのとなんとなく4年で大学を卒業するのがもったいないと感じて院進を決意しましたが、モチベーションは低く院試も結構点数低かった覚えがあります。
あまりPCにも明るくなく、研究の中で数値計算をプログラムで行う必要があった際に初めてプログラミング言語(C言語)というものに触れました。初めて買った技術書は苦しんで覚えるC言語です。知識がほぼなかったこともあり、今振り返ると色んなアンチパターンを踏みまくっていたなと思います。kansuという名前の関数を作ったり、変数名は基本a,b,cなどのアルファベット1文字を順番に使っていたり...
もちろんGitなんて存在知るはずもなく、ローカルには日付や連番が名前についたファイルが日々増えていく感じでした。
大学院1年で就職活動を通して自分と向き合った結果、自堕落な日々を脱して1日でも早く社会の波に揉まれたいと思い、中退を決意して、内定をいただいた会社にフルタイムの内定者アルバイトとして参画します。
新卒時代
内定者アルバイト時代はSEO事業で数値管理やディレクション業務などに携わり、その後当時提供していたサイト解析ツールの企画やCS業務に携わりました。正社員になるタイミングで、未経験ではあるもののWebエンジニア(以降エンジニア)として働いてみないかという提案をいただいたことが、僕のエンジニアとしてのキャリアのスタート地点です。
最初はPHPで2年ほど社内プロダクト開発を中心に携わり、3年目にSESとしてJavaとjQueryの案件に参画しました。
一番最初の上司が鬼のようにスパルタだったこともあり、1年目はよく泣いた思い出がありますが、この時の経験が今のキャリアに確実に活きているので感謝しかないです。
中途時代
3年目の終わり頃に、家庭事情がきっかけで自分自身のキャリアとやりたいことについて考えた結果、転職を決意します。とにかく泥のように働きたい、自分自身で事業を創る経験と力が欲しい...etc といったことをひっさげて株式会社ビットエーに入社しました。
入社後すぐに、現代表の坂本と2人で色々な新規事業の種を探して議論を交わしたことが昨日のことのようです。
ふとしたきっかけからWeb社内報の可能性に気づき、市場調査や社内外のヒアリングを通して、事業化する意義を見出したことでourly事業がスタートしました。立ち上げ時のお祭り感あるバタバタを乗り越えて、試行錯誤を経て今に至ります。
自分自身のキャリアの転換点
改めて振り返ったときに、自分自身のエンジニアとしてのキャリアの転換点となることが5つほどあるのでそれを紹介しようと思います。
1. 新卒入社した会社で思いがけずエンジニアとしてのキャリアを提案していただいたこと
新卒入社した会社には一番最初、営業志望ですと言って面談を受けた覚えがあります。
エンジニアとしてのキャリアは1mmも頭になく、メガバンク勤めで全国に知り合いがいる父親に尊敬の念を抱いていたので営業ってかっこいいなという思いがありました。総合職として内定をいただいた後、内定者アルバイトで携わる業務もエンジニアリングは直接関係ないものだったので正直提案をいただいた時は驚きました。
後日談として聞いた話では、カルチャーマッチした中途エンジニアの採用が難しいため、カルチャーマッチしている未経験の新卒をエンジニアとして育てていく環境作りの第一号として選んでいただいたということでした。僕自身、昔から工作(もの作り)が好きだったことや多少なりともプログラミングの経験があったことで、二つ返事で了承した気がします。この決断に対しては後悔や反省は全くないです。
そもそもこの提案がなければEMとして働いている今この瞬間はなかったと思いますし、何より会社として自分に向き合って適性を見抜いて提案いただいたことに感謝しかありません。そしてそのチャンスをタイミングよく掴み取った過去の自分自身の決断力と運に対しても感謝です。
そういうわけで、ある意味スタート地点となるこの提案が転換点の1つ目です。
2. 1年目で鬼上司にスパルタ教育を施してもらったこと
入社時に新卒には一人一人メンターとして1年間、当時の部長やマネージャークラスの方についていただくという教育制度がありました。僕についてくださった上司(以降Tさん)は頭の回転が早く、パワフルで厳しくて行動力とコミュニケーション力抜群の方でした。Tさんはエンジニアにおいて一番重要なのはメンタルと考えており、1年間は徹底的にメンタルを鍛えるためにあえて厳しくした、と後で言っていました笑。
厳しかったエピソードは色々あるのですが、いくつかピックアップすると
- 初めての実務が、約3週間後の期日のみが設定された社内プロダクトの開発
- 1ヶ月後の期日が設定された既存事業のクライアント向け管理画面の引き継ぎ開発(あるのはモック画面のみ)
- 通常業務で手一杯の状態で、後輩内定者の社内プロダクト開発のサポート
- 業務を抱え込みすぎてアップアップでメンタルが落ちているところへの激烈フィードバック
どれも今振り返ると強烈ですが、一番印象深いのはやはり初めての実務での社内プロダクト開発です。
社内での課題ヒアリングからそれを解決する社内プロダクトの開発を行ったのですが、なぜか先に期日だけ決められており、その期間でヒアリングとペーパープロトタイプとバックエンドのコーディングを行う必要がありました(インフラ構築とフロントエンドのコーディングだけは他の方にやっていただきました)。
プロジェクトが開始してからは土日関係なく連日深夜2時,3時くらいまで開発して帰って寝てまた出勤して...という繰り返しでした。体力的にしんどかったというよりは、分からないことが多すぎて何をすれば良いのか、どうすれば解決するかの手札が少ないことが精神的にきつかったです。
今週土日合宿しよう!と言われて土曜日朝イチ出社したら「ごめん、今日行けなくなった!Google OAuthで調べて実装しといて!」とだけメッセージが来ていた時のハシゴ外された感は今でも覚えています。なんとか自力で実装した時に「おっ!やるやん!」とちょこっと褒めてもらえたのも嬉しかったです。
Tさんの狙い通り(?)、1年間のスパルタを耐え抜いた結果、そこそこ強いメンタルを獲得することは出来たかなと思いますし、Tさんからも「お前は1年間でメンタルだけは成長したな」と言ってもらいました笑。
今の時代なかなかこういったことは経験しづらくなってしまった感はありますし、みんながみんなこういった経験をした方が良いとは思ってませんが、一定厳しい経験を乗り越えた人は追い込まれた状況でもパワーを発揮して自ら打開できる人が多い印象です。
ちなみにメンタル以外の部分も大いに学ぶことがあり、僕の仕事の基礎をこの1年でしっかり固めることができたというところが転換点の2つ目です。
3. 3年目にSESとしてクライアントワークを経験することで外の世界を知ったこと
最初の2年は社内プロダクトの開発に従事していましたが、3年目からSESとしてクライアント先に常駐して開発業務を行うという経験をしました。技術もPHPからJavaに代わり、あまり触れてこなかったフロントエンド領域のjQueryにもゴリゴリ触れるきっかけになりました。
2年ほど経つとそれなりに色々なことができるようになるので、いわゆるコンフォートゾーンに入るタイミングかなと思います。僕はもちろんまだまだひよっこエンジニアでしたが、調べればなんとかなる、ダメならこういう実装なら最低限の動作は担保できる、などのある意味逃げの手札が増えたことで精神的に追い込まれる機会は少なくなっていました。
また、地獄の1年目を耐えたメンタルとそこそこのコミュニケーション力とムードメーカー気質な性格のおかげで、技術力以外の部分では社内でも一定の存在感を発揮していた感覚がありますが、僕自身も少しコンフォートゾーンに入っていたのかなと思います。
そんな中、クライアントワークで外の世界を経験することで、以下の気づきを得ます。
僕めちゃくちゃ技術力低いやん...
Javaの経験ないとはいえ、PHP少しは書けるしなんとかなるやろ、と思っていたらレビューコメントでいただいた「DI(依存性注入)」「シングルトン」「AOP」の単語に「?」の連続でした。また、フロントエンドには苦手意識があったのでjQueryもまともに書けない状態で、僕は一体今まで何をやってきたんだろう...と久しぶりに精神的な負荷を感じました。
幸いなことに常駐先の現場の部長自ら色々と教えてくださったり、エンジニアの方が親切に教えてくださったりしたこともあってきちんとエンジニアとしての責務は全うできたと思います。
本当に「井の中の蛙」ということわざがぴったりだなと。技術力以外の部分に逃げてきちんと向き合えていなかった自分に気がつき、もっともっとコード書かないといけないし、勉強しないといけないことを痛感した瞬間でした。
今はRailsを書いているので静的型付け言語からは離れてしまっていますが、この現場で教えていただいたこと、経験したことは今もそれなりに活きています。
自分のエンジニアとしての未熟さと学び続ける必要性、そして外の世界を見る重要性に気づいたこの経験が転換点の3つ目です。
4. ourly事業の立ち上げで多くの強強エンジニアの方と仕事したこと
転職してourly事業の立ち上げの際に、社内外の優秀なエンジニアの方々を集めて、技術選定やアーキテクチャ設計、API設計などの設計から実装までを一緒にやったことが僕の中での4つ目の転換点です。
特に社外の方では、社内のGMクラスのエンジニアの方の繋がりで、国内トップレベルのエンジニアの方々に定例で相談する機会をいただいたり、設計レビューをいただいたりしました。
もちろんそれ自体にものすごく学びがあり、自分自身の中での貴重な経験にもなったのですが、それ以上に自分が今後戦っていくべき領域が見えてきたというのが大きいです。
情報系の学部や大学を出ているわけでもなく、僕自身プログラミングが好きで好きでたまらないかというとそういうわけではないです。ただでさえ優秀なエンジニアが仕事以外の時間を使って自分よりも多くの時間技術に触れ、知識を増やし、経験を積んでいる状況の中、同じ土俵で戦っても勝てるわけもなく、多少経験があるといってもミジンコ以下の価値しか発揮できないわけです。
そうなると同じ土俵で戦うのは得策ではなく、彼らにはない自分自身の強みは何か、どういう戦場で自分は戦っていかなければならないのかを明確に意識し始めました。
この段階では明確にどこが自分の強みなのかまでは言語化できていませんでしたが、よくエンジニアのキャリアで語られる、スペシャリストかゼネラリストかでいうところのゼネラリスト方面であれば、自分の持っている武器を組み合わせることで価値を発揮していけるだろうと考えていました。
自分とは異なるバックボーンの人と仕事することで自分自身の生存戦略について考えるようになったので、転換点として紹介しました。
5. 分社化して明確にエンジニアチームを率いるようになったこと
最後に、分社化してからの話です。
ourly株式会社として分社化して転籍後、明確にEMという役割を任命いただきました。
それまでは株式会社ビットエーのourly事業部という形だったので評価精度やグレード定義などもビットエーの定義を元にしていましたが、転籍後はourly株式会社としての定義に変わります。
ビットエーの時にも実質EMっぽい動きはしていたのと意識はしていたものの、明確にチームを背負う責任を持っていたわけではないので少し曖昧な状態でした。
明確に背負う形になったことで、自分に求められていることが自分自身の成果からチームとしての成果にシフトして、チームがどういう目標を追ってそのためにどういう体制を築いていくか、どういう会議体を設定するか...etc など、チームを主語として考える機会が圧倒的に増えました。
1社目からベンチャー企業を選んだ理由として、組織に対する手触り感(当事者意識)が理由の一つだったのですが、今がその手触り感を一番感じられています。それは会社から任されたからではなく、チームを主語にして考えて動き、発言することができるようになってきたからです。
この手触り感は難しいポイントでありつつも、僕にとって楽しみであり、やりがいであることに改めて気づき、自分の進むべき方向性に確信を持てたことが5つ目の転換点です。
これからのキャリアについて
さて、(途中3つくらいにしておけばよかったと思いつつ)5つの転換点を紹介してきましたが、今僕が考えている今後のキャリアについて軽く書き記しておこうかなと思います。
まず、僕が今ourly株式会社で働いている理由を紹介すると、それは「創造」です。
僕は普段から自分自身が一番仕事を楽しみたい(funnyではなくinteresting)と思っており、そのためには自分と一緒に働く人が楽しく働いていることが一番大きな要素です。そんな楽しめる環境や組織を創る、楽しめる人を創る、プロダクトを創る..etc などなど「創る」ことが根底にあるなと思い、それを今の所一番体現出来るのがourlyなのです。
その「創る」対象を広げていくことが今後の僕のキャリアの方向性です。
今まではHowの部分を中心に「創る」ということを考えてきました。例えば、新機能をどう創るか、このQ目標を達成するための体制をどう創るか、どういう会議体を創るか...etc といったようなことです。
僕自身がこのHowの部分に集中してきた結果、今のチームメンバー意識やスキルもHowを中心としたものになっています。
これはこれで狙った通りにチームとして成長できた証でもありますが、その分チームとしての関わっている範囲や思考を狭めてしまっている要因の一つでもあります。
今後はHowだけでなく、What(何を創るか)をプロダクト/組織/チームに対して考えていき、それを創れる人になる、というのが今考えていることです。
最後に
ここまで長文を読んでくださって本当にありがとうございます。最後にキャリアに対しての僕の考えをお伝えしてしめようかなと思います。
ここまで読んでくださった方はなんとなく分かっていらっしゃると思いますが、僕は狙って今のスタートアップのEMという立ち位置にいるわけではありません。目の前の仕事に向き合い、チャンスが来たらそこに飛び込むことを繰り返してきた結果、今があります。
メディアでよく取り上げられるキャリアの積み方の例として、孫正義の人生50年計画や大谷翔平のマンダラチャートのようないわゆる山登り型のキャリアがあります。
が、反対に川下り型のキャリアがあることもご存知でしょうか?
詳しくはこちらのページが分かりやすいので興味ある方はご覧ください。
まさしく僕自身の今までは川下り式のキャリアだったと言えます。そしてこれからは自分が目指すべき方向性や像が見えてきて山登り型にシフトしつつあります。
就活中の大学生や若手社会人の方とお話すると、キャリアに悩んでますということをよく聞きます。自分が何歳の時にどうなってるかとか今後どうなりたいかがわかりませんということに悩んでいることが多いのですが、そんな時に僕はこの山登り型と川下り型の話をして、今明確にないなら川下り型で目の前のことに集中するのでも良いのでは?とアドバイスします。
無理やり決めた目標や、自分の意思の伴っていない目標ほどしんどくてつまらなくて、無意味なものはないです。
自分のやりたいことが見つかるまでは、直近興味があること/やっていることに全力投球して転がってきたチャンスに飛び込んでいくスタイルも試してみてはいかがでしょうか?
最後までお付き合いいただきありがとうございました。