金田一京介『言語研究』(東京: 河出書房、昭和8年11月)のp.249には、以下の記述がある。
倭名鈔式内の神社の中で、奥州濱街道最北のものが、氣仙郡の理訓許段の社である。リクンコタンは多分地名であらうが、今のアイヌ語では、リクンコタン(rik-un-kotan)は「上の村」「高い所に在る村」である。釧路厚岸郡にあるリコタン「上村」「高村」といふも同じである。北海道では釧路の足寄郡にある陸別のRik-unがそれで、高川の意味である。理訓許段の社は今の氷上山の神社に比定され、高處にある故さういふ名が附いてゐることは、合點し得るのである。
私(安岡孝一)は、この説明に合点がいかない。というのも、氷上山頂西側の理訓許段神社は、元々は麓にあった神社を山頂に移設したもので、最初から氷上山にあったわけではない(cf.新野直吉: 理訓許段神社, 式内社調査報告, 第14巻(昭和61年2月), pp.998-1004)。ただ、麓のどこにあったのかは議論があって、高田町長砂の本宮神社(cf.上部郁雄『神道大系 氷上神社・社記抜粋』(高田町: 氷上神社、平成19年5月))と、赤崎町鳥沢の尾崎神社奥宮(cf.岩崎淺之助『赤崎村史料』(赤崎村: 山本周太郎、大正8年5月))が、それぞれに理訓許段神社の「跡地」を主張しており、尾崎神社には宝物としてinawが収められている。
正直どっちなのかわからないので、両方とも現地に行ってみた。行ってみたところ、どちらも小高い丘の急斜面にあり、いずれも海が見えるものの、斜面がきつくて「村」(kotan)など作れそうにない。これ、どちらも違うんじゃないか、と思ったのだが、ハタと別の可能性に気づいた。理訓許段を「上の村」(rik un kotan)と読む、という説(cf.竹内運平『東北開發史』(東京: 現代之科學社、大正7年7月), p.117)がそもそも間違っているのであって、仮にアイヌ語だとしても、たとえばrik un kotorなど、他の可能性を考えるべきなのではないか。
だとすると、そもそも理訓許段神とは何なのか、という問題に突き当たる。私個人としては、アイヌ語訳『五倫名義解』に出てくるレクトコトカモイ(rik to kotor kamuy)が気になるところだが、微妙に響きが違う上に、別海町は離れすぎている。さて、フリダシに戻った感じなのだが、どう調べていけばいいかな。