「なんか寂しいな」
「哀しいな」
とSNSなど、ネットの世界を見てても、外で電車に乗ったり街を歩いたりしてても思うことが多いです。
人が目に映ってても、何か切り離されてる感覚というか、下手すると「友人」や「家族」といても同様の感覚に襲われたりもします。
目の前の相手を思い遣ったり、「世の中をちょっとでも良くできるように」とか、「後世にちょっとでもいいモノやいい社会、いい環境を残せるように」みたいな考えが弱いというか(企業理念とか履歴書の志望動機など表向き公の場ではそういうことを言いはするけど)、
for (;;) {
/*「今だけ金だけ自分だけ」(東京大学 鈴木宣弘先生)*/
printf("「自分さえ良ければいい」\n");
printf("「俺の方が正しい」\n");
printf("「私の方がすごい」\n");
printf("「自分の方が頭いい」\n");
/*「相手を認めたら負け」「謝ったら死ぬ病」等*/
printf("「お前なんか認めないぞ」\n");
printf("「お前は間違っている。俺の正義でお前をただしてやる」\n");
printf("「自分ガ自分ガー」\n");
printf("「本質ガー」\n");
}
みたいな自己愛(ナルシシズム)やプライドやコンプレックスの塊を延々互いに投げつけてぶつけ合ったり、「バズった」とかそういうことを追いかけすぎたりしてるような、そういう感じがするたびに、冒頭の感情に襲われます。
コーディングではないという意味では、プログラミングとは直接関係ないように思えるかもですが、私たちの思考や行動も教育やメディア、これまでの言動や経験などによって少しずつ入力されアップデートされてきたプログラムだと考えると、私たち自身はかなり歪なプログラムに基づいて日々を送っているのではないかと思ったりします。
「テレビやスマホやPCの画面を覗いても、「幸せ」や「答え」「ソリューション」は出てこないのではないか」とも思います。結局私たちがスクリーン、モニターを通して見ているのは「自分自分」「自分の欲」「エゴ」「満たされない自己愛」といったものであるのならば、それも当然と言えるのかもしれません。
技術も人間の社会のためにあるべきだとするなら、そこに私たちの人間性を介在させる以上、私たち自身のことを時に振り返って、私たち自身の中にあるコード、プログラムを修正したりスケールしたりするという意識も大切というか、役に立つのではないかとふと思いました。
エゴばっかりで、相手に対する思いやりや自分の短絡的な感情のためだけじゃなく、中長期的に自分や他の人のため、社会のためにもなるように、という意識が希薄だと、コミュニティ・その場の空気も悪くなって濁って毒素も充満していくし、そうなるとそのコミュニティ(共同体)は衰退していくのでは。
SNSやコミュニティサイトであれば、それによってユーザー数が伸び悩んだり、投稿やユーザー同士の交流も減ったり劣化したりすることで廃れていくのでは、とも思います。
社会や集団、サービスの質を作る、左右するのは、サービスを提供する企業や国家や地域を運営する行政などだけではなく、他ならない私たち一人一人なのでは。
SNSにしろ、会社の職場にしろ、学校にしろ、地域社会にしろ、サイバー空間にしろ、それを作っていくのは日々の私たちの思考や発言や行動のはずなので、やはり自分というプログラムも時には見つめ直したいと思いました。
日本の社会が結構今危ない状況にあるんじゃないかと思いますし、陰謀論ぽいものもありますが、「近い将来、早ければ来年、遅くても10年以内に日本という国がなくなってしまう可能性が高い」みたいな説もあります。去年か一昨年にそんな話を聞いても私は真に受けなかったろうと思いますが、今は結構現実味があるように感じてます。
そうなってほしくない。日本という国が続いてほしいし、もっと良くなってほしい。
そのために私たち自身が自分の中のプログラムを一旦見直して、リファクタリングしたりして、リーダビリティ、スケーラビリティ、メンテナビリティ、セキュリティ、リライアビリティなどを高め、お互いを大切にして、尊重して、危機意識も持ちつつ信頼できる人たちと支え合いながら乗り越えていくことが大切なのではないか。そして技術、テクノロジー、文明はそのためにあるべきなのではないか。と思いました。
変な長文すみません。読んでくれてありがとうございました。