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オープンソースの中心にある文化戦争

Last updated at Posted at 2019-05-22

戦争が起こっています。戦争の無い時代というのは、一体いつ来るのでしょうか?もっとも、ここでは物理的な戦争について話している訳ではなく、意味をめぐる戦争:「オープンソース」が何を意味するかについての論争です。

少し前に戻りましょう。

#フリーソフトウェア財団

人々は様々な理由から、グループを組織します。この話は、「GNUプロジェクト」と呼ばれた組織の物語から始まります。それは1983年に始まったものですが、[ここにUSENETに関する最初のアナウンスがあります。]
(https://groups.google.com/forum/#!msg/net.unix-wizards/8twfRPM79u0/1xlglzrWrU0J)その中の4つの重要な段落を抜粋します:

この感謝祭より、私はGNU(Gnu’s Not Unix:GnuはUnixではないの意)と呼ばれる完全なUnix互換のソフトウェアシステムを書き、それを使うことのできるすべての人に無料で提供する考えです。多大な時間、お金、プログラム、そして設備を必要としています。

プログラムが好きなら、同じくそれを好きな他の人々とも共有しなければならない、そんな黄金律が必要だと私は思います。私は良心から、秘密保持契約やソフトウェア利用許諾契約に署名することはできません。

自分の原則に反することなくコンピュータを使い続けるために、有料のソフトウェア無しでやっていけるよう、私は十分な数のフリーソフトウェアをまとめることに決めました。

私がもし金銭の寄付を受けられれば、少数名のフルタイム・パートタイムを雇えるかもしれません。給料は高くはありませんが、人類を助けることがお金と同様に大切であることを知っている人々を、私は探しています。私はこれを、彼らが他の方法で生計を立てる必要をなくしてやることにより、GNUへの取り組みに全力を尽くせるようにする方法と考えています。

この投稿については、異なった意見もたくさんあり、興味深いすべての種類のものが含まれています。しかし今のところ、私はここで動機について話したいと思います。主な動機というのは二つありました。一つはソフトウェアを作成すること。二つ目はより強い動機で、既存のものは特イデオロギーとは、純粋に認識論的な理由以外により個人またはグループが保持する、規範的な信念や価値観の集合である。定の値のセットと互換性がないため、新しいものを生み出す必要がある、ということです。

「イデオロギー」という言葉はなかなか扱いにくい言葉ですが、ウィキペディアの定義に従ってみましょう:

GNUプロジェクトは、特定のイデオロギー:ソフトウェアを共有すること、に従ってソフトウェアを作成するために作られました。プロジェクトがこの目標を達成したかどうか、またこの目標が良かったのかどうかについては、ここでは議論しません。私の主張は、GNUプロジェクトの始まりがとりわけ規範的な信念や価値観の集合によって、動機付けられたということです。

その2年後、GNUプロジェクトを支援し、フリーソフトウェアのコンセプトを推し進めるため、フリーソフトウェア財団が設立されました。フリーソフトウェアはGNUプロジェクトのイデオロギーに沿ったソフトウェアであり、その定義は1986年2月に作成・公開されました。その定義は次のようなものです:

私たちの名前に含まれる「無料」という言葉は、価格を指すものではありません。それは自由を意味します。まず初めに、プログラムをコピーして、それを同様に使えるよう隣人に再配布する自由。第二に、プログラムを好きなようにコントロールし、変更する自由。そのためには、ソースコードを利用できるようにする必要があります。

それ以来、フリーソフトウェアの定義は4つのポイントに拡大されました。現在の定義は[こちら]
(https://www.gnu.org/philosophy/free-sw.en.html)から見ることができます。

#オープンソースの登場

それから10年が経ち、問題が生じてきました。ここで[ウィキペディア]
(https://en.wikipedia.org/wiki/Open_source#Origins)からもう一度引用します。

「オープンソース」という言葉の現代的な意味は、政治的な課題や、「フリーソフトウェア」という言葉に含まれる道徳哲学を批判し、より商業的な考え方を反映させるためその論説を見直そうとした、フリーソフトウェア運動のグループによって最初に提案された。当時「フリーソフトウェア」という用語のあいまいさは、ビジネスでの採用を妨げるものと見なされていた。このグループには、Christine Peterson、Todd Anderson、Larry Augustin、Jon Hall、Sam Ockman、Michael Tiemann、Eric S. Raymondがいた。Petersonは、Netscapeが1998年1月にNavigator用ソースコードのリリースを発表したことを受け、カリフォルニア州パロアルトで催かれた会議で「オープンソース」を提案。翌日にはLinus Torvaldsが支持を表明し、またPhil HughesはLinux Journalでそのコンセプトを支持した。

ここに私たちは、オープンソース運動の萌芽を見ます。より初期の起源が知りたいなら、[Eric S. Raymond]
(http://www.catb.org/~esr/open-source.html)の発言を挙げましょう:

厳密に言えば、私たちは「フリーソフトウェア」というコンセプトではなく、その用語自体に問題を抱えています。私はその用語を何とかしなければならないと、確信するようになりました。

ここには二つの問題があります。まず、混乱するということ。「free」という言葉は非常にあいまいです(フリーソフトウェア財団の宣伝文句が、絶えず格闘していなければならない点です)。「free」とは、「料金が発生しない」という意味でしょうか、それとも「誰でも自由に変更できる」という意味でしょうか?

次に、この用語は多くの種類の企業をナーバスにします。これは本質的に私を煩わせるようなものでは全くないものの、私たちは彼らを嘲るのではなく、彼らの転換を促すことに実際的な関心を持っています。私たちは今、自身の理想や、技術的な卓越性へのコミットメントといった点で妥協することなく、ビジネスの本流において多大な利益を上げられる可能性があります ― 今が転換の時なのです。私たちは、新しくてより良い標語を必要としています。

その後まもなくして、[オープンソース・イニシアチブ(OSI)]
(https://opensource.org/)が設立されました。フリーソフトウェア財団の一種の鏡ともいえるOSIは、「オープンソース」という用語の推進と、その背後にあるイデオロギーを支持しました。フリーソフトウェアの定義と同様、[オープンソースの定義]
(https://opensource.org/osd)が、フリーソフトウェア作成のDebianガイドラインを基になされました。

繰り返しになりますが、私たちにはイデオロギーに沿った組織があります。しかし、この場合は少し異なります。[旧バージョンのOSIウェブサイト]
(https://web.archive.org/web/20090413035630/https://opensource.org/history)によると:

評議員たちは、過去の「フリーソフトウェア」に関連した道徳的・対立的な態度を捨て、Netscapeを動機付けしたのと同じ実際的なビジネスにおいて、そのアイデアを強く売り込む時が来たと判断しました。

また[現在のバージョン]
(https://opensource.org/history)では:

評議員たちは、Netscapeが自分たちのコードをリリースする動機となった実用的なビジネスの分野は、潜在的なソフトウェアユーザーや開発者と関わり、そのコミュニティに参加することによって、ソースコードを作成・改善するよう彼らを説得するための、有益な方法を表していると信じていました。評議員たちはまた、このアプローチを特定し、哲学的および政治的に焦点を当てた用語「フリーソフトウェア」から区別する、単一の用語を持つことの有用性を信じていました。

このアイデアは明白です:ビジネスのための、フリーソフトウェア。

このトピックのさらなる詳細については、[The Meme Hustler]
(https://thebaffler.com/salvos/the-meme-hustler)を一読されることをお勧めします。

#近い将来

その後20年が経過し、多くのことが変化しました。

イデオロギー運動を持続させるためには、新しい会員の中に価値観を再創造する必要があります。フリーソフトウェア財団とオープンソース・イニシアチブは、しばらくの間は上手くやっていました。これら二つの動き、フリーソフトウェアとオープンソースは多くのソフトウェアを生み出し、そして多くの新たな転換者を獲得しました。しかしそれから…何かが起こりました。

それがどのようにして起こったのか、正確にはわかりません。おそらく安易な答えは「GitHub !!!!」でしょう。私は、GitHubがその役割を果たしたと思いますが、正解はもっと複雑なものでしょう。個人的には、ジェンダーが大きな役割を果たすのではと考えます。しかし、それはまた別の評論でのお話です。理由の如何に関わらず、何かが起こったのです。

その過程のどこかで、オープンソースは多くの運動が直面する問題に行き当たりました:運動のメンバーが、もはや運動を最初に創ったイデオロギーを理解しないということです。

あなたがもし、開発者の中からランダムに選び、彼らにとって「オープンソース」が何を意味するのかと尋ねても、「オープンソースの定義に従ったソフトウェアだ」という答えは殆ど耳にしないでしょう。もし「フリーソフトウェアとオープンソースソフトウェアの違いは何?」と聞けば、大抵は「え、同じものじゃないの?」とか、「オープンソースソフトウェアは必ずしも無料ではなく、お金を請求することもできるよ」等の答えが返ってきます。果ては、「ああ、GitHub上にあるよ」という答えすらあるでしょう。

あなたがオープンソースについて開発者と話をするなら、他の何かについても耳にすることがあるでしょう。それは、ここ最近私の脳裏に引っ掛かっていたもの、そして私にこの投稿を書かせたもの。企業とオープンソース開発者との関係が厄介なものであると、開発者が話すのをよく聞くでしょう。ええ、複雑です。ビジネスは「十分に与えず」、オープンソースのため作業する人々に、お金を払いません。いつも持っていく(take)だけで、与えること(give)をしません。私はこれを口癖のように言ってきました。

しかし、これがその理由:オープンソースのコンセプトが最初に作られた理由です。それを実際に作りだした人々に尋ねるならば一目瞭然、その理由はすぐそこにあります。オープンソースは、フリーソフトウェアをビジネスにとってより良いものにする方法でした。もちろん、そこに批判の余地が無いという訳ではありません。関係は改善することができます。私はこれらの開発者が馬鹿で、偽善者だとは思いません。

これが、私たちの現在地です。フリーソフトウェア運動が生まれ、それを受けてオープンソースが誕生しました。今日の開発者たちは、この歴史について学んだこともなく、気にすることも、またそれとは無関係であると積極的に考えることもありません。そしてそのために、私たちは戦争をしています。オープンソースの意味をめぐる戦争。ツイート、ブログ投稿、そして議論による戦争。最初にアイデアを作りだした昔の守護者と、そのアイデアをベースに実行へ移した新世代の開発者との間の戦争。

歴史は繰り返されるといいます。オープンソース運動が「フリーソフトウェアに似ているが、こういった点で異なる」と言ったように、これもまた新しい運動に取って代わられるだろうと私は思います。「オープンソース」が新たに名付けられたのと同じ理由で、今日の開発者たちから起こる運動にも、新しい名前が必要になるでしょう。その運動がどの様なものかは分からないので、また別の投稿で理由を探っていきます。少しだけご紹介を:問題は、フリーソフトウェアとオープンソースの両方が形作られる過程にあります。腐敗は根にあり、何がそれに取って代われるのか、私にはまだはっきりと分かりません。

関連記事

[オープンソースの次に来るもの]
(https://www.anypicks.jp/news_resources/1132)

この記事は、AnyPicksマガジンからの再掲載です。原文は[こちら]
(https://entry.anypicks.jp/the-culture-war-at-the-heart-of-open-source/)です。

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