光合成反応の概要
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\rm 2H_{2}O + 4h\nu \rightarrow 4H^{+} + 4e^{-} +O_{2} \label{water-oxidation}\tag{1}
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式$(\ref{water-oxidation})$で表される水分解反応は、光エネルギーを化学エネルギーのような他形態への変換において基本となるプロセスである。この水分解反応の自然界での代表例の一つが高等植物やシアノバクテリアで行われる光合成である. 周知のとおり、光合成反応では太陽光エネルギーが吸収されて生物が利用可能な糖類などの化学エネルギーに変換され、水分子が外来的な電子の供給源(電子供与体)として用いられる.
この光合成での水分解反応は膜タンパク質である光化学系Ⅱ複合体(photosystem Ⅱ : PSⅡ)において行われる. その触媒活性中心である酸素発生錯体(oxygen-evolving complex : OEC)は4個のMn原子と1個のCa原子がμ-oxo架橋した$Mn_{4}CaO_{5}$クラスターと、6つのカルボキシ基、1つのヒスチジル基によって構成される.
27億年前に発生した最古の光合成生物であるシアノバクテリアからその後の高等植物に至るまで$Mn_{4}CaO_{5}$クラスターの化学構造と機能は一貫している。近年海底の巨大なMn団塊が新たな資源として注目されているように、原初の地球において海は大量のMnの供給源であった。海中に発生した原初の生物が豊富に存在するこれらのMnを取り込み、今日まで残る光合成のシステムが形成された。その光合成による酸素発生反応によって現在の大気環境が作り出され、現在までの生物の進化がもたらされたと考えられる。これらの光合成システムの構築過程とそれに伴う生物の進化は地球上の生命の歴史を考える上でとても興味深いものである.
この$Mn_{4}CaO_{5}$クラスターにおいて式$(\ref{water-oxidation})$で表される水分解反応が起きる。この式$(\ref{water-oxidation})$は水分子の酸化還元反応を表すが, ここでの"酸化"とは水分子から電子が放出されることを意味する。この水の酸化反応で生じた電子は、最終的に電子伝導体である還元型ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド(Nicotinamide Adenine Dinucleotide Phosphate(reduced) : NADPH)の生成に用いられ、チラコイド膜の内外に形成されたプロトン濃度勾配による膜電位を利用して合成されるアデノシン5'-三リン酸(Adenosin 5'-triphosphate : ATP)と共に炭酸固定、つまり二酸化炭素($CO_{2}$)の糖類($C_{n}H_{2n}O_{n}$)への還元に利用される。ここで、生物が生存する上で不可欠となる酸素$O_{2}$は水分解反応の二次的産物として排出される.
光合成における電荷分離動力学
これらの光合成過程において、水分解反応の結果として中性の水素原子ではなくプロトンと電子が放出されていることは重要である。これはつまり、反応過程で中性の水素原子から正電荷のプロトンと負電荷の電子という形で電荷分離を生じていることを示している。光合成において電荷分離が生じているという事実は光エネルギーから電気エネルギーへの変換とも解釈できる。さらに、チラコイド膜内外のプロトン濃度勾配による膜電位、つまり電気エネルギーを利用してATPと糖類が合成される過程を含めると、これらの過程全体を俯瞰すると光エネルギー(太陽光)から電気エネルギーを経て化学エネルギーに変換されると見なせる。これらの解釈から、冒頭で述べたように光合成は光エネルギーを他形態のエネルギーへ変換する自然現象であり、自然界での生物学的な根幹となるシステムであることが分かる。
近年、光合成過程でのこの電荷分離のメカニズムが大きく注目されている。この電荷分離という形で光エネルギーを電気エネルギーを高効率に変換するシステムは我々にとって現在まさに必要としている理想的なエネルギー供給手段である。現在のエネルギー供給の主流となっている火力発電及び原子力発電はエネルギー供給体制や環境などの様々な側面において多くの欠点を持っている。また、産地が偏っていることによる地政学的リスクや、有限な資源であることに由来する枯渇の危機など, これらの発電方法には恒常的なエネルギーの供給という観点において大きなリスクを抱えている。また、化石燃料や核燃料の使用によって環境汚染や地球温暖化の悪化をもたらすという点もある。このように現在のエネルギー供給の主流である火力発電及び原子力発電は持続可能性のあるエネルギー供給媒体とはなりえない。そこで、太陽光を含めた自然エネルギーを利用したエネルギー供給手段が注目されている。しかし、現在の技術では火力発電に替わるほどの高い安定性・効率性を実現できていない。そこで、光合成の安定かつ高効率に太陽光からエネルギーを生み出すメカニズムが注目されている。
このように自然界における光合成反応の一連の過程、そしてその駆動力となる電子の供給を担う水分解反応機構の解明、及び光合成システムを応用した新たな高効率の水分解触媒の開発は光合成を扱う研究者たちの最終目標である. しかし、実験・理論の両面でこれまで多くの研究が行われてきたが、未解明の謎が数多く存在するため、光合成のメカニズムの完全な解明には至っていない。このように光合成を応用した高効率の画期的な水分解触媒の開発は未だ道の途上である。しかし、光誘起水分解反応の技術的応用のために$Mn_{4}CaO_{5}$クラスターが効率の良い触媒として機能するかについて、クラスターを構成するMn原子の酸化数だけでなく、他の要素も研究されてきた。これらのいかなる形態の水分解反応においても、電荷分離 $H^{+}+e^{-}$ の結果として電子とプロトンの対が生み出され、副産物として酸素分子や過酸化物が生成されるという共通の過程を持つ.
ここで、光合成を応用した新たな光触媒の開発において光合成と既存の人工物の固形光触媒を比較し、反応触媒メカニズム違いに留意しなければならない。
人工物の固形光触媒と光合成に関与する生体物質の両方に水分解反応とその過程での電荷分離を触媒する機構が存在するが、両者には互いに大きな違いが存在する。太陽電池や半導体光触媒のような人工の固体物質では、数多くの原子が相互作用で化学結合を形成し、バンド構造を呈する。ここでバンド構造には、電子の占有軌道が密集した価電子帯バンドと電子が収まっていない非占有軌道が多く密集した伝導帯バンドの2種類のバンド構造が存在している。このようなバンド構造を有するため、人工の固体物質での電荷分離は電子とホールの生成を意味する。つまり、価電子帯の電子が伝導帯に光励起されることで負電荷の電子と正電荷のホールが生じる。一方、有機・生体分子の系では人工の固体物質より少ない数の原子のみが化学結合に関与する。よって、有機・生体分子の系での電荷分離は電子とプロトンの生成を意味する。中性の水素原子から(または水分子の分解過程で)負電荷の電子と正電荷のプロトンが生じるのである。光合成ではこの電荷分離によって生じた電子とプロトンが既に述べたように膜電位の制御などにおいて反応に大きく寄与する。
さらに光化学の観点から重要な点として、人工物の機構では多くの場合、OECが直接光励起されることで光誘起電荷分離が起こるが、生体機構ではOECの電子基底状態において電荷分離が誘起されるとされている。OECの$Mn_{4}CaO_{5}$クラスター以外の分子が光励起され、タンパク質中の分子間のネットワークを介して電子とエネルギーがOECや様々な関連分子との間でやり取りされ、水分解反応と電荷分離が駆動される。このように生体由来の反応メカニズムでは、$Mn_{4}CaO_{5}$クラスターは直接光励起されず、光励起された他分子からエネルギーを与えられて反応が駆動される。反応分子が直接光励起されて活性化して反応が駆動されるという光化学の"常識"を破り、$Mn_{4}CaO_{5}$クラスターは反応中であっても基底状態を維持し続ける。このように、人工物と生体では水分解反応及び付随する電荷分離のメカニズムが根底から異なるのである.
式$(\ref{water-oxidation})$が示すように光合成の水分解反応は4光子過程であり, 水分解サイクルではこの4光子過程の1光子ごとに異なる電荷分離動力学が誘起される。つまり、光合成での水分解サイクルは4光子過程に対応した4種類の異なる電荷分離動力学によって駆動される.
この4種類の異なる電荷分離動力学に応じて$Mn_{4}CaO_{5}$クラスターを構成するMn原子の酸化数が変化する。この酸化数のの変化において、$Mn_{4}CaO_{5}$クラスターは1光子ごとに電子状態とMnの酸化数の異なる反応中間体$S_{i}(i=0〜4)$を経る。添字の$i$はその反応中間体での$Mn_{4}CaO_{5}$クラスターの酸化数を表し、状態$S_{i}$の添字$i$が大きいほどに$Mn_{4}CaO_{5}$クラスターの酸化が進んだ状態を表す。これらのMnクラスターの異なる反応中間体$S_{i}(i=0〜4)$の状態はS状態と呼称され、物理化学分野で一般に使用される、分子種の一重項電子状態を表す$S_{n}$とは異なる用語であることを強調しておく。
光がない暗状態では安定な$S_{1}$の状態を取るが、光が存在する状態では1光子ごとに異なるS状態を経た後に初期状態に戻るというサイクルを繰り返す。このような過程で水分解サイクルは駆動される。
PSⅡでの水分解反応は4種類の電荷分離動力学によって駆動される. さらに, 1つのみのMn原子を含んだ単核Mn酸化物が単独で電荷分離を誘起する能力を持つことが理論研究から明らかにされている. しかし, この単核のMn酸化物単体ではPSⅡで起こる水分解反応の触媒サイクルを構築することはできない. そのため, $Mn_{4}CaO_{5}$クラスターでの水分解サイクルにおける化学プロセスや電荷分離動力学を解明するため, Mn酸化物のMn原子数やMn酸化物から放出されたプロトンや電子を受け取る周囲の分子を増やすことで水分解サイクルの化学動力学を調べる試みが様々な理論的手法で行われてきたのだ.
参考文献
杉浦美羽, 伊藤繁, 南後守, "光合成のエネルギー変換と物質変換" 化学同人, (2015)