「なぜchatgptを使わなければならないか」
これを別の言葉に言い換えたい
「なぜ新しいこと・ものに飛びつかなければならないか」
理由は世界は後戻りせず変わり続けているから。
俗な例えを引用すると、
「googleで検索できるなら、暗記しなくていいじゃん」
この言葉を全面的に支持する。
すべて記憶してなくても、検索エンジンで検索すればいいし、
計算の達人にならなくても、計算機を使えばいい。
単純作業ならプログラムを書いて、自動にしたらいい。
そういうと、
「計算力や記憶力がなければ、頭が悪くなる」
「そういった我慢、反復の経験がなければ人として成長できない」
といった反論がありそう。
ほんとにそうだろうか?
頭のいい人間の例として数学者を挙げるなら、彼らはどのように
仕事を行っているか?彼らは紙とペンと使い数式を解いている。
それも同じことではないだろうか?
それを見て反論する人たちは、同じように現代の数学者を批判しなければならない。
「現代の数学者は紙に書かないと自分の考えを記憶も計算もできない大馬鹿である」
「ましては、コンピュータを使わなけれ複雑な計算ができないぼんくらである」
この批判に対して多くの人は喜んで賛同できないはず。
人間はこれまで、単純な機能を外部に受け渡し、自分の思考の範囲を広げていった。
工学、物理、化学などによって人間は多くのことが出来るようになった。
頭の良さだけではない。肉体的なことでも同じで、
ウサイン・ボルトが本気で走ろうが、新幹線と比較にならないほど遅く、
どれだけの力自慢の巨漢も大型トラックに引かれてしまえば簡単に死ぬように。
つまり、何が言いたいかというと個体の修練よりはるかに外部を機能として利用する方が生産性も結果も圧倒的に大きい。
ならば、新しいものは試そうという話。
また、競争の観点から話そう。先ほど、「個体の修練よりはるかに外部を機能として利用する方が生産性も結果も圧倒的に大きい」といった。そうなると、ある新しい技術が出てきたとき、その中の集団であなた一人ががその技術を活用するなら他者を圧倒出来る。熟練の職人を一日で抜きさることが出来る。新しいものを100回試して1回でも成功すれば、周りを圧倒出来る。99回の失敗も初期段階では致命傷にならない。取り残された人間が出来る選択は二択。自分も技術を取り入れ2匹目のどじょうを狙うか、自分の今やっている範囲内だけで死ぬまで威張り散らすか。私はどちらも悲惨に見える。
ChatGptを使ってみよう。