"直列の世界に、並列の美学を。ひとつの命令で、複数の意志を動かせ。"
プログラムの実行とは、基本的に「命令を1つずつ順に実行する」ことで成立する。
それは、あまりにも人間的で、あまりにも限界的な手法でもある。
しかし、現代のCPUにはその前提を超える構造が存在する。
SIMD(Single Instruction, Multiple Data)——
ひとつの命令で、複数のデータを同時に処理する命令セット。
この章では、SIMD命令というアセンブリの中でも特異な存在を通して、
並列性の美学と制御可能な高速化の可能性を掘り下げていく。
SIMDとは何か?
SIMDは、プロセッサ命令セットのひとつのモデル。
ひとつの命令(Single Instruction)で、複数のデータ(Multiple Data)を処理する
対義語的存在は、**SISD(Single Instruction, Single Data)**であり、
これは従来型の命令列を意味する。
SIMDは、以下のような場面で非常に有効:
- 画像処理(RGBピクセルの並列変換)
- 音声波形のフィルタリング
- 数値シミュレーション(行列・ベクトル演算)
- 暗号化処理(バイト列に対するビット演算)
x86におけるSIMD命令セットの進化
世代 | 命令セット | レジスタ幅 |
---|---|---|
MMX | MMX命令 | 64bit |
SSE | Streaming SIMD Extensions | 128bit |
AVX | Advanced Vector Extensions | 256bit |
AVX-512 | AVX-512 | 512bit |
SIMDレジスタは:
-
XMM0–XMM15
(SSE) -
YMM0–YMM15
(AVX) -
ZMM0–ZMM31
(AVX-512)
といった形で提供される。
それぞれ、複数のスカラ値を「ベクトル」として格納し、同時に演算可能である。
SIMD命令のアセンブリ例(SSE)
section .data
a dd 1.0, 2.0, 3.0, 4.0
b dd 5.0, 6.0, 7.0, 8.0
result times 4 dd 0.0
section .text
global _start
_start:
movaps xmm0, [a]
movaps xmm1, [b]
addps xmm0, xmm1 ; xmm0 = xmm0 + xmm1(並列に4つのfloat加算)
movaps [result], xmm0
; exit省略(省略時は無限ループ)
.loop: jmp .loop
ここで addps
は、Packed Single-Precision Floating-Point Add を意味する。
つまり xmm0[0] += xmm1[0]
, xmm0[1] += xmm1[1]
, ... といった演算が1命令で同時に行われる。
なぜSIMDは“哲学的”なのか?
通常の命令が「ひとつのことを、確実に処理する」のに対し、
SIMDは「同時性を前提とした構造で、意味を構築する」。
これは構造設計上、以下のような違いを生む:
項目 | 通常命令 | SIMD命令 |
---|---|---|
抽象度 | 高(変数単位) | 低(バイト/ビット列) |
エラー伝播 | 逐次的 | 並列かつ非局所的 |
保守性 | 高い | 難しい(バグは埋もれる) |
読みやすさ | 高 | 低(意図の明示性が乏しい) |
つまり、SIMD命令は、“速度”を得る代償に“意味”を犠牲にする命令体系でもある。
設計者は、それを「高速化」と捉えるか、「制御不可能性」と見るかを問われる。
SIMDは最適化の最後の刃
SIMDは、以下の条件がすべて揃ったときに最大効力を発揮する:
- 大量の同種データが存在し
- 処理が分岐を伴わず(branchless)
- メモリアクセスが整列(aligned)し
- スレッド間干渉がなく
- コンパイラ最適化が十分でない
つまり、SIMDは**“人間が最も制御可能で、CPUが最も効率的に動作する条件下”**でのみ光る。
それは、理想と制限の交差点であり、
設計者にとっては、最後に解き放たれる“速度の刃”である。
SIMDの落とし穴:抽象なき世界で迷わないために
-
アライメント違反:
movaps
は16バイト整列が前提。失敗すれば即クラッシュ。 -
命令の複雑性:命令名が直感的でない(
addps
vsaddpd
vspaddb
) - 命令幅の違い:SSE, AVX, AVX-512 は命令体系も異なる
- ハードウェア依存性:AVX-512 は一部のCPUでしか使えない
設計者は、抽象に頼らず、自らの知識で制御する勇気を求められる。
結語:並列とは、速度ではなく構造である
SIMD命令は、単に「速い命令」ではない。
それは、**構造が変わった時にのみ現れる“別の言語体系”**である。
- 命令は単純だが、意味が重い
- 効率的だが、保守性は低い
- 美しいが、文脈を選ぶ
そのすべてを理解し、制御しようとするとき、
設計者は初めて「並列」という設計思想の本質に触れることになる。
"並列とは、速度ではない。それは、秩序の書き換えであり、命令列を詩に変える行為である。"