UnleashMeetのアドベントカレンダー 『ITと障害者』を考える 〜 障害と向き合うITの力と工夫 〜、最終日を迎えました。
最終日の記事を書かせていただくことになった私ですが、UnleashMeetの主催をさせていただいております。
自己紹介
私は先天性の骨形成不全症という障害を持っています。簡単に言うと生まれつきの骨粗鬆症です。身長は110cmで、歩行が難しく、日々電動車椅子で生活しています。
そんな障害を抱えながらも、これまでプログラマーとして働いてきた私の経緯をこの記事にまとめてみました。
正直なところ、何か特別なメッセージを伝えたいというよりは、自分が書きたいことを書いた、そんな内容で大変恐縮です。それでももし読んでいただけると、とても嬉しく思います。
プログラミングに興味を持ったきっかけ
私は小学校から高校まで、現在の特別支援学校にあたる養護学校に通っていました。卒業後は障害者向けの職業能力開発校に進学し、そこでプログラミングの道を選ぶことになります。
高校生のとき、進路を選ぶ際に、デザイナーやライターではなく、「絶対にプログラマーだ」という根拠のない強い思い込みがありました。
なぜプログラマーを目指したのか、自分でもはっきりとした理由はわかりません。ただ、振り返ってみると、いくつかの出来事が大きなきっかけとなっていたように思います。小学生の頃、父が購入したパソコンで「一太郎」や「ロータス123」といったソフトを使いながら学んでいる姿を見て、自然と興味を持ちました。私自身も父のパソコンを借りてゲームを楽しむことがあり、それが「パソコン」という存在を身近に感じる第一歩でした。また、姉がプログラマーとして働いていたことも、私に大きな影響を与えました。
さらに、幼い頃から母に「あなたは体が思うように動かない分、頭で勝負しないといけないよ」と言われ続けていました。学校の勉強は得意ではありませんでしたが、母の言葉や家族の影響が心の中に根付いていたのだと思います。こうした環境や家族の言葉が、結果的に私をプログラマーの道へと進むきっかけになったのかなと思います。
職業能力支援学校でプログラミングを学ぶ
進路の決定について
小学校から高校まで養護学校(現在の特別支援学校)に通っていました。当時、私の体力は今以上に乏しく、周囲の大人たちや両親からは「普通の会社で働くのは難しいから、就労継続支援施設に進むべきではないか(当時はプログラミングを行うような就労継続支援は無かった)」と勧められていました。しかし、どうしてもプログラミングの仕事をしたいという強い思いがあり、必死に抵抗しました。その結果、なんとか障害者を対象とした職業能力開発校に進むことができました。
入学後
職業能力開発校は自宅から片道1時間ほどの距離にあり、自力で通うのは難しかったため、毎日母が送迎してくれました。
入学後に私が衝撃を受けたのは、プログラミングの面白さ……ではなく、一緒に学ぶ人たちの「不真面目さ」でした。当時、私は高校を卒業したばかりの18歳。職業能力開発校には、手に職をつけることを目的とした幅広い年齢層の生徒が通っており、中には中途障害で入学した30代、40代、さらには50代の方もいました。
養護学校で育った私にとっては、基本的に「良い子」でいることが当たり前の環境でした。良い子である必要はやはり面倒を見てもらわなければならないからというところも大きかったと思います。普通の学校以上に、模範的な行動を求められる世界で生きていたため、周囲の大人たちの振る舞いに驚きを隠せませんでした。
「不真面目さ」といっても、授業中に雑談を始めたり、こっそり寝て怒られたり、元気なのに体調不良を装ってサボったりといった程度のことです。また、放課後に男子寮で集まり、大人のビデオを見て盛り上がるなど、今考えてもいい歳して皆なにやってたんだろうと笑ってしまいます。でももしかしたら僕達は「青春のやり直し」をしていたのかもしれません。
最初は戸惑いましたが、周囲の大人たちに可愛がってもらい、結果的には楽しい思い出として心に残っています。
就職活動
私が職業能力開発校に通っていた時期は就職氷河期の真っただ中で、健常者でも就職が難しい時代でした。そのうえ、私は体の成長段階で骨がもろくなっており、在学中に6回もの骨折(1回は手術)を経験しました。このため、思うように就職活動を進めることができず、応募しても「お祈り通知」が次々に届く日々が続きました。
それでもプログラミングの勉強は楽しく、特にCOBOLを学んでいた頃は、自宅のPCでは動作確認ができないこともあり、授業後も学校に残ってPCを借り、コーディングに励みました。その姿を見ていた職員の先生方が私の努力を認めてくださり、特例子会社への推薦を全員でサポートしてくれた結果、無事に就職を決めることができました。
会社員時代
就職が決まったのはプログラマーではなくデータ入力
就職先が決まったものの、配属されたのはプログラマーではなくデータ入力の仕事でした。毎月中旬になると大量のレセプト(病院の領収書)が会社に届き、それを健康保険のシステムに登録するためにデータ入力を行うのが主な業務でした。
「せっかくいただいた仕事だから」と、早く正確に入力することを目標に頑張っていました。しかし、この仕事をずっと続けていくのかと考えると、閉塞感を覚える日々もありました。
チャンスをくれた先輩と上司
そんなある日、会社の先輩が「VBAを勉強してみないか」と声をかけてくれました。この先輩は、その後も私に多くの仕事観を教えてくれる大切な存在となります。
当時の私は、ただひたすらデータを入力するだけの毎日でした。しかし、その先輩は「入力作業を効率化するためにプログラムを作るのはどうか」と上司に提案。提案が通り、その開発を入社間もない私に任せてくれたのです。
実務経験がなかった私は、最初こそ不具合を連発し、何度も怒られました。それでも先輩は私を叱りながらも守り、成長を支えてくれました。
考えることを止めない
先輩が教えてくれた大切なことの一つに、「考えることを止めない」という教えがあります。
ある日、仕事でわからない点があり「インターネットで調べてみます」と言ったところ、先輩から「調べるだけじゃダメ」と指摘されました。続けて、こう言われたのです。
「調べた後は、自分の頭で考えなさい。紙とペンを使って書き出してみること。考えた分だけ、それは間違いなく自分の力になる。どんなに情報があっても、考えることを止めたら成長はないよ。」
この言葉を胸に、私は調べた情報をそのまま使うのではなく、理解し応用できるよう努力するようになりました。
使う人のことを常に考える
ミスを繰り返しながらも少しずつ成長し、先輩の力を借りずにマクロを作れるようになった頃の話です。
特例子会社という環境では、障害のある社員と健常の社員が協力して仕事をしていました。ただ、健常の社員が多くの業務を担い、障害のある社員には比較的簡単な部分が割り振られる状況がありました。この状況を改善するために、私は業務の流れを整理し、ミスを防ぐためのデータチェックや自動化ツールを作成していました。
しかし、いくら工夫してもオペレーターにうまく伝わらず、使いこなしてもらえないことが多々ありました。当時の私は「自分の作ったものは完璧だ」と思い込み、どこが問題なのか理解できませんでした。
そのとき、先輩が言った一言が胸に刺さりました。
「ちゃんと相手のことを思って作ってる?」
「作ることが目的じゃない。使う人がちゃんと使えることが目的だ」と、何度も言われました。この言葉をきっかけに、私は相手の立場に立って物事を考え、より使いやすいものを作るようになりました。
余白を持ちなさい
相手を思いやることを学び、徐々に多くの業務を任されるようになりました。ある日、要件定義を兼ねたプレゼンテーションをする機会がありました。準備した資料を使ってプレゼンを行い、内容的には問題なく終了しましたが、その後、先輩からこう指摘されました。
「プレゼンは良かったし、内容も間違いない。ただ、誰も君に意見しなかったのはなぜかわかる?」
「相手が意見を言えるような『余白』を作るべきじゃないかな」
完璧な仕事を一人で完成させるのではなく、周囲と協力しながら築き上げることの重要性を学びました。
色々なことを教えてもらった会社員時代
その後、私はデータ処理をメインに行う部署でチームリーダーを任されるなど、多くの経験をさせてもらいました。良いことも悪いこともたくさんありましたが、今の自分が仕事に対して大切にしている考え方は、この会社で学んだことが基盤になっています。
十数年間勤めた会社を、2020年のコロナ禍をきっかけに退職しましたが、そこでの経験は今でも私の大切な財産です。
転職失敗からの独立
退職の理由
私が会社を退職した理由は2つあります。一つ目は、長年VBAをメインとしたデータ処理の仕事をしており、新たにWeb開発に挑戦したいという希望があったこと。二つ目は、通勤を両親に送迎してもらっていたものの、彼らの年齢を考えると、この形を続けるのは難しいと感じたことです。
退職を決めたのはコロナ禍の真っただ中。リモートワークが一般的になりつつある状況で、Webアプリ開発の経験はないものの、これまでのプログラマーとしての実績があれば転職は問題ないだろうと楽観的に考えていました。しかし、現実は厳しく、応募してもお祈りメールが届く日々。中には完全に無視されることもありました。
それでもWebアプリ開発に挑戦したいという気持ちは変わらず、就職活動と並行して毎日プログラミングの勉強を続けていました。先の見えない日々に不安はありましたが、好きなことに集中できる時間が持てたのは貴重な経験でした。
転職を諦めてフリーランスへ
実は、Webアプリ開発をしたいという気持ちは会社員時代から抱いていました。そのため地元の勉強会やオンラインコミュニティに参加し、学びを深める努力をしていました。
そんな中、とあるコミュニティでKさんという一人法人のフリーランスとして活動している方と出会いました。障害者である私の状況を理解した上で、KさんはWeb開発を学ぶために必要な技術や、キャッチアップするための方法を丁寧に教えてくれました。一人では学びの方向性に迷っていた私にとって、このアドバイスは大きな助けとなりました。
退職後、Kさんに相談しながら転職活動を続けていたものの、なかなか結果が出ませんでした。そんな私に、Kさんは「フリーランスとしてやってみないか」と助言してくれました。迷いはありましたが、挑戦することを決意し、独立する運びとなりました。
その後、Kさんの紹介でとある会社と業務委託契約を結ぶことができ、現在もその会社でお仕事をさせていただいています。
勉強会での繋がり
退職後のいわゆる「ニート時代」には、オンラインで開催されるさまざまな勉強会に積極的に参加していました。あるコミュニティが毎月勉強会を開催しており、そこに参加し続けていたところ、「時間をお渡しするので、勉強会で講師をしてみませんか?」とお誘いをいただきました。
内容は、Next.jsとSupabaseを使用した簡単なWebアプリ開発のハンズオンでした。この勉強会で講師を務めた際、偶然参加していた方と知り合いになり、その縁で仕事の機会をいただくことができました。その会社では現在もスマホアプリ開発を担当しています。
一人法人を検討中
Kさんを始め、皆さんのお陰で今もお仕事をさせていただけています。
これまで自営業として活動してきましたが、たまたまその年が好調で、収入が一定を超えると翌年は市区町村の障害者サービスを受けられなくなる可能性があるため、法人化を検討することにしました。収入を安定させるための選択です。法人化に向けた準備や必要な知識の習得は大変ですが、近日中にはすべて完了する予定です。
これまでに学んだこと
これまでの人生で、家族の支えをはじめ、多くの方々に助けていただきながら歩んできました。自分一人の力はほんの少しですが、周囲の人々に恵まれているおかげでここまで来ることができたのだと思います。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
これから先、どのような未来が待っているかはわかりませんが、少しでも多くの人に喜んでもらえるような仕事をしていきたいと思っています。現状に満足せず、日々精進していく所存です。
長文にもかかわらずここまで読んでくださった皆さま、ありがとうございました。
そして、UnleashMeetのアドベントカレンダーに参加してくださった皆さん、記事を読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。また来年、この場所でお会いしましょう!