意識には視床が必要?
意識は脳の視床と関係するの?
今回はあっさりと、前回の意識の仮説の最後に書いた補足の記載をするよ。AIに意識が宿るか?その機構は??って話。
自分は意識は視床で発生している、視床と大脳皮質が絡む巨大カオスが意識発生源と考えている。
視床
画像出典
視床と意識が関係しているのは、実は医学的には結構当たり前で、そもそも視床に活動低下が起こると意識は低下すると言われている。それもここで言っておくけど、もうひとつ、盲視というよく知られた現象があって。
目の悪い人の中に、本人見えてないと言うけど、何故か指す方向を当てずっぽうで当てさせるとめちゃ当たる人がいて。その人をよく調べると、大脳の視覚野が働いてなくて見えないらしいと。盲視と言うよ。極たまに脳障害の人にいる。
で、例えば以下のような記事があるので見て見て。盲視の記憶に関しての研究だし怪しい研究では無いのが分かるでしょ。
見ていると意識できなくても“覚えている”脳
―視覚野の障害でも無意識に脳の別の部位(中脳・上丘)が記憶の機能を代償―
で、この中に記載がちゃんとあるけど、説明の図を抜き出すとこれ。
通常の人の見えてる経路は下。
そして、盲視の人の神経の経路はこれなんだ。
つまり、視覚野の問題もあるけど、両方大脳には最後行ってるでしょ?
大脳行く前の中継で大きな所は、まさに
「視床を通っているかどうか」なのは一目瞭然なんだ。
もちろんの他にも理由はあるよ。まずはひとつの根拠を挙げてみたよ。分かりやすいよね。
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視床通ってる経路なら「見えている」
視床+大脳視覚野 見える! -
視床通ってないなら「見えてない」
上丘+頭頂野 見えない!!
視床には実際には視覚野の多数のフィードバックが来るよ。
これ見ると大脳の頭頂野に後者は行ってるけど見えてないでしょ??要は言いたいことの一つとして、
「大脳はそれだけでは意識の野ではないのではないか?」
という事も強く示唆するよね。
また、もうひとつあるのが、視覚野が作った結果、を視床が見る、と言う形は、まさに視覚意識の特性として、出来上がった画像を「見ている」と言う振る舞いにとても合う。
色々な人がこれ言ってきたことなんだんけど、意識はまるで劇場のように、風景を見るわけだし、それは明らかに「脳内で作られた」映像なんだよね。
色は当然この世界には無い(電磁波が網膜細胞を刺激するのみ)ので、何か「見ている画像が作られる」言わば視覚のクオリアが発生する、と言うのは変な話。そして実際に視覚野ではまさにDNNの認識的な処理が行われているのはかなりわかっていて、問題はそれを「どう誰が見てるのか??」という問題なんだよね。
実は視覚の結果が、視床にフィードバックされてると言ったけど、それが視床内で「意識に統合されている」とすればこの謎が明確にわかる。
そして、今までは、自分も含めて、視床は小さいし、それも変なんじゃないか??と思っていたんだけど、StableDiffusionなどのネットワークが動作する様子を見ていて、ああ、視床でやっぱりいいのだ、と思うようになった。StableDiffusionの分析と視床の動作の比較などをしているので下記も見ていただければと。
と言うのは、視床が産まれてからの初期意識を司っているのは大脳がまだ生まれてすぐはあまり作られてないので当然だし、そして潜在変数を扱う処理を行っていると考えるとまさにこれが視床の働きそのものとして非常にクリアになる、という事なんだ。
この信号の流れは極めて解剖学的なものだし、視床の流れ内に意識関係してるという直接的な医学的証拠として見てもいいのかな、と思ってる。
そしてこれは一部のAI企業と研究者が唱えている、
「情報処理すれば意識あるでしょ??」と言う素朴な情報処理と意識の同一説の反例としても機能しているね。
こんな感じで詰めていこう。
追記
こういうの見て自分が思うのは、やはり、意識についていろんなことを言う人たち、実験とか現実とかちゃんと見てる??って話かもしれない。
少なくても現実は「視床+視覚野」は意識があり、「上丘」を通ったら意識がないんだ。
これは事実なんだ。神経も情報処理も意識の本質では無いことは明確で、「視床+視覚野」が意識を発生させている物理機構なのは現実的に論理的に間違いないんだ。他の事をいくら言ってもそれは机上の空論なんだよ。もちろん他にも自分には理由があるんだけど、ここだけでも「絞りこめる」。難しい言説で混乱を招くべきでは無い。
HQFTの話もそうなんだけど、まず現実見ようよ。脳のどの経路に信号が流れてたら意識あるのか。そこだけでもいくらどんなこと言っても仕方ないでしょって思うわけですよ。そうでなくい人達は、やはり一種のポジショントークなのでは?意識の話をネタにして儲けようと思うからこそ、現実を見ない、ないし無視するのでは??と思ってる。