言葉から見る日本と英語圏の違い
ミーティングが長い
今日、外国籍の同僚と話をしてたら同僚がちょっとした不満を漏らした。それはミーティングが長いこと。
確かにうちの会社のミーティングはなんだかんだで伸びてしまいがちなところがある。1時間のつもりだった議論が白熱してしまい時間が伸びる/その時間内で話を終わらせられないといった事がちょくちょく起きる。
なるほど確かに改善していく必要があるなと思いながら話を聞いていると彼女はこう続けた。
「ミーティングで議論しないでほしい」
ミーティングとディスカッション
議論が長びくことが問題なのかと思って聞くと、どうもそうではないらしい。「そもそもミーティングだと思って参加したので議論が始まることが嫌」なのだそうだ。
彼女の中ではミーティングとディスカッションは別のものとして明確に区別されている。ミーティングは「進捗の共有と次回に向けたタスクの確認」をする場であり、ディスカッションは「皆の考えや方向性のすり合わせ」の場なのだそう。
一方、日本人の思う会議は進捗の共有から始まり、議論によってみんなの方向性を擦り合わせる場になっている。つまりミーティングとディスカッションを明確には区別していない。これは言葉の面においてもその違いが表れている。
ミーティングは「出会い」を意味する meet からきていて、ディスカッションは「議論」を意味する discuss からきている。そして面白いことに、その違いを知ってか知らずか、会って議論すると書いて「会議」とよんでいる。
文化の違い
なるほど「共有」と「議論」が曖昧になる事で不満が出るのであれば直した方が良いなと思って「それは確かに良くない事だね」と同意すると意外にも彼女の方から「これは良い悪いの問題じゃない。悪いから直して欲しいとかじゃない。ただ文化の違いだと思っていて、その文化にまだ自分が馴染めていないだけ。」と返してきた。
英語圏などでは責任を持つ人を明確にして、共有や議論の場に来る人を絞る事で他の人の時間を必要以上に使わないようにしている。人の時間を使う事をコストと考えて、そのコストをいかに減らすかに焦点を当てている。
一方日本では全体で同じ内容を共有する場を作る事で、各々が全体像を見て個々が同じ目標に対して自律的に動く事を期待する。人の時間を使う事に対して「コスト」という感覚は少なく、全員が一つの場所に向かおうとする事に焦点を当てている。
どうもそんな違いが見え隠れするような気がする。
時間に対する感覚
そんな事を考えながら一つ感じたのが「時間」に対する感覚の違いだ。
時間を使う事を「コスト」と捉える時、多分人は無意識のうちに時間を「迫りくる敵」と捉えているように感じる。
もしかしたら様々な人種や国と隣りあった状態の国にとって、時間を有効に使えずに時を過ごすことはすなわち敗北・殲滅を意味していたのかもしれない。そんな環境の中にいたら時間をかける事はただのコストであり、時間は常に追いかけてくるものだったのだろう。
日本は逆に、時間を「迫りくる敵」とは捉えずに「共に歩んでいく仲間」として捉えていたのかなと思う。少なくとも時間を使う事に対して欧米ほど強烈に負の感情を持ってはいないと思う。これは国内でお互いに争っていたかもしれないが、人種は基本的に同じで「負け = 殲滅」となる事は少なかったという経緯が関係しているのかもしれない。
これが「西洋」と「東洋」の違いの一つなのかもしれない。
な〜んてことまで空想して繋がっていく。そして一人でワクワクしてる。笑
相反する感覚を知り、理解する
同僚からも言われたが、これは「善し悪し」の話ではない。
複数の異なる背景から生まれた違いを知り、その時々で自分に必要な考え方を活用して前に進んでいく。
そんな挑戦が今後必要になっていくのだと思う。
現に日本は西洋の考え方を取り入れようと挑戦し、逆に欧米は東洋の考え方を取り入れようとしている面もある。
違う事はもどかしくて、でもその違いを知れる事はどこか楽しいものだなと最近よく思う。