はじめに
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
この記事は DevLove Advent Calendar 2013 「現場」 の53日目の記事として書いています。
1月1日の23:57時点でまだ書いています。ギリギリです。
自己紹介
@ma2saka (まつさか)です.
とあるベンチャー企業でインフラ部門のマネージャをしています。少し前は大手ECサイトで国外向けのショッピングモールのシステム開発をしていました。もっと前は、中堅システムインテグレータで固いお客さん向けのシステム開発に関わっていました。
.NET と Java でアーキテクトやってたはずなんですが、数年離れているうちに Java 8 とか C# 5 とか全然追えてなくてとてもじゃないけどそこらへんのエキスパートの端くれとは自称できません。
最近は ruby で fluentd のプラグイン書いたりしてます。
DevLove甲子園の懇親会で酒が入っている中安請け合いしたアドベントカレンダーで、まさかの1月1日を引きました。最初見た時は1月2日だったはずがいつの間にか繰り上がっていたので、油断なりません。
どんな内容?
新年なので、仕事の話はまったく関係なく、私が毎年の年始にだいたい見直しているアニメ映画「機動警察パトレイバー 2 the movie」からいくつか印象深いシーンについて勝手に引用してあれこれコメントします。趣味です。
タイトルは現場という言葉と戦場という言葉がよく似ているという連想からです。内容とはあまり関係がありません。
現場と楽観主義
まず、物語後半の(たぶん最大の)見せ場からいきましょう。
「戦線から遠退くと楽観主義が現実に取って代る。そして最高意志決定の場では、現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けている時は特にそうだ」
「何の話だ。少なくともまだ戦争など始まってはおらん」
「始まってますよとっくに! 気付くのが遅過ぎた」
これは面白い台詞の応酬で、「戦争の定義」をいろいろ考えて戦争が起こっていないと考えようとする官僚達に、主人公の後藤警部補が痛烈な言葉をぶつけるシーンなのですが、なかなか尾を引く内容です。「戦線から遠のくと楽観主義が現実に取って代わる」ことは実際にしばしば目にしました。
たとえば、大規模なウォーターフォール開発で実装の詳細に踏み込む詳細設計をしている最中などにこんな会話をしたことのある方はいるのではないでしょうか。
「開発現場から遠退くと楽観主義が現実に取って代る。そして最高意志決定の場では、現実なるものはしばしば存在しない。進捗が遅れている時は特にそうだ」
「何の話だ。少なくともまだ開発は始まってはおらん」
「始まってますよとっくに! 気付くのが遅過ぎた」
楽観主義フィルタは本当に恐ろしいものです。どこかで都合の悪い情報は「ネガティブな意見」として聞き入れられなくなったりします。
他人事感
現場とそうでない場所との距離感について、うまくいかないケースもあります。経営層や管理層は現場の目線で常に考えていても困るのですが、かといって一方的な断絶が発生すると気持ちが悪いものです。また、ユーザーの立場であってもサービス提供側への目線があまりにも欠けたりします。
「その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは」
これはリアルな出来事をまったく自分事としてはとらえない人々と、完全にバーチャルな扱いを受ける戦争についての語りです。
たとえばこんな風なことを思った事はありませんか?
「その成果だけはしっかりと受け取っておきながら Excel の向こうに運営を押し込め、ここがプロジェクトの単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは」
不幸にもこのような気分になってしまう場合、たぶん現場とのコミュニケーションが足りていません。構造的な問題があります。逆に、自分が現場にいる場合にこんな気配を感じる時も同様です。話をしましょう。
この台詞は、「このような欺瞞を続けていれば、いずれは罰が下る」と続きます。「誰が罰を下すんだ。神様か?」という問いかけに対して、「この街では誰もが神様みたいなもんさ」という皮肉っぽい言葉が返ります。
何一つしない神様
「この街では誰もが神様みたいなもんさ。いながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る。何一つしない神様だ」
評論家タイプで他人事っぽい関係者がいると、こんな気分になる時があります。
この言葉、私はけっこう好きです。
だいたいこの神様という言葉には万能感がありません。むしろ無力感があります。なんとなく、Excel の資料と報告だけで現実を把握してそうな感じがします。
その神様に選択が突きつけられるのが、この台詞。
「だが、二本のテープが二本とも虚構だったとして、吹っ飛んだベイブリッジだけは紛れもない現実だ」
映画の時間軸的にはこっちのが先ですが、決定的証拠と思われるビデオや資料が虚構である可能性があるとして、しかし実際に起こった事は変化しないという現実が示されます。積極的な判断や意思決定が必要になる瞬間があります。
「いながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知」ったとして、矛盾する情報も含めて知ったとして、ではどうするのか? という話です。何もしないのであれば、それこそ「何一つしない神様」です。そもそも、何一つしないからこその遠い目線なのかもしれません。
ミスキャスト
物語後半。東京を舞台としたテロが現実のものとなり、戦争状態が演出されてしまうのですが、主役の後藤警部補は状況を改善するために情報収集を開始します。
「ここからが本題なんだ。政府は自分達のことは棚に上げて、ここまで事態を悪化させた警察を逆恨みしている。頼るに値せず、ってな。で、シナリオは変えずに主役を交替することにしたって訳だ」
「おい。まさか」
「そのまさかだ。舞台はミスキャストで一杯。誰もその役を望んじゃいないのにな。素敵な話じゃないか」
ソフトウェア開発の現場は舞台のようなものだと思うことがあります。特に大きなプロジェクトはそうです。配役があり、役割があり、脚本があり、演出があり。出演者のアドリブにまかされている範囲もあり、一回性の繰り返しが効かない種類のものです。
現場には様々な思惑が錯綜するのですが、残念なことにうまくいかないケースもあります。多くの場合、「いきなり配役を変える」のは非常に危険なのですが、「責任」の言葉のもとにその選択を取ることがあります。
「ここからが本題なんだ。顧客は自分たちのことは棚に上げて、ここまで事態を悪化させた開発会社を逆恨みしている。頼るに値せず、ってな。で、シナリオは変えずに者役を交代することにしたってわけだ」
「おい、まさか」
いや、どこの大型プロジェクトの話というわけではないんですけどね。もちろん。
ここまでこじれてしまった後に、それこそ現場レベルでの対応は困難です。
「またしても泥を被るのは現場だ。それに真相を解明する前に次の状況に移るとしたら」
そうならないように、また、そうなってしまう可能性を考慮して、我々は戦っていかなければいけないと思うのです。
戦場と現場
いやあ何度見てもいい映画だなぁ。1993年公開で、けっこう古いんですが古さをほとんど感じさせません。(携帯電話やインターネットが普及してないとかありますが) この映画で描かれている論理には、年を経るごとに共感することが多くなります。
さて、我々はどこにいるのでしょうか? 最前線でしょうか? 「戦線の後方」でしょうか?
どこでも変わりません。それは等しく現場なのです。「ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける」ことのないように。自戒を込めて。
ギリギリ1月1日更新です。次回54日目は rozary さんです。よろしくお願いいたします。