皆さんこんにちは。大晦日ですね。 @emadurandal と申します。主にCGやWebGL界隈で浮いたり沈んだりしております。
ここ数日、ある「はてな記事」がTwitterの技術屋さん界隈で話題になっています。
これについて、私いろいろ思うところがありまして、Twitterでいろいろつぶやいていたのですが、
結構、同様に思う方がいらっしゃったのか、それなりにいいね・リツイートされたようです(と言っても、せいぜい数〜10回程度ですが)。
Twitterだと流れてしまうので、せっかくだし備忘録的に自己まとめしてみようと思ったのがこの記事の発端です。Qiitaにも言及しているので、ならQiita記事としてまとめようと思ったりもw
前提
何度も念のため言いますが、この記事は「正しさ」ハラスメントの元記事を書かれた方をディスる目的でまとめるものでは決してありません。
これから紹介するツイートでも書いていますが、「感情」と「論理」は別物です。
人は得てして、自分の意見が否定されると自己そのものが否定されたと感じてしまったり、その逆で、反論する者も勢い余って相手の人格をもディスってしまうこともありますが、それは悲しいことです。
「正しさ」ハラスメントの元記事には、「確かに……そう感じることもあるかも」というような、一理あるかな、と思う部分もあり、すべてを否定できるものではありません。ただ、多くの技術者・研究者の方が反応したのは、「ハラスメント」という言葉を使って、「善意の指摘」というエンジニアの素晴らしい行いを封殺する意図が感じられたからだと思います。そこに、多くの方は危惧を感じたのです。
以後、手抜きのツイートのペーストの嵐ですw
まぁ、ツイートが流れないように、という意味でのまとめなので。ここからただのコピペモードに入りますw ご了承くださいませ m(__)m
最初は、グチから始まった…。
あ、いや。最初はとあるslackでの出来事でちょっと感じた悩みを吐露していまして、そこからいろいろつらつら呟いているうちに……って感じでした。
なんかにゃあ。知識の共有というか、議論によって新しい知見が互いに得られるきっかけに、と思って問題提起したんだけど、「単なる知識のひけらかし」みたいに思われたりしてないかにゃあ。だとしたらすごい悲しい。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
放っとく手もあったのかもしれんけど、記事に誤解招きそうな表現があったら、みんなで議論して、より最適な記述に修正していくのは誰にとっても意義あることと思うんじゃが・・・。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
水を差すことがタブー、となるともう何もできないにゃあ・・・(:3」∠)
そもそも自分、ひけらかしや自慢ができるほど知識がしっかりしてないからにゃあ。だからこそ議論とかマサカリ推奨したんだけど……。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
結局、どういう印象を与えてしまうか、はこちらの意図とは違う結果になることも多いにゃあ。自分がもっと気配りできる人ならそこらへんうまくやれるのかもしれんけど
でも(あくまで一般論として)日本の人って、気配りとか空気読めて然るべき系の暗黙のルール縛りが強すぎる気がしていて、自分にとってはそれがすごく動きにくいにゃあ(一般論ですよあくまで!)
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
欧米だと、むしろ「俺が俺が!俺に言わせろ!」なノリで、自分にとってはそっちの方が活動しやすい。
民族の気質の話なのでどちらが正しいとか全然ないわけですが、個人的には「出る杭状態の他人がウザイと思うなら、あなたがもっともっと出る杭になればいいじゃない」な気質の方が好きかな。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
もちろん行き過ぎるとギスギスするけど、日本の場合は多少それがあった方が議論がより進展して得る物多いよね
なぜか猫語なのは気にせんといて!_(:3」∠)_
R&D Slackについての話題
ここら辺は完全に脇道ですね。いや、私 R&D Slackという、CG/ゲーム分野の研究開発に意欲のある方が集うSlackを運営しておりまして。そこで感じている悩みです。悩み多いなおいら。多感だなw
あ、 R&D Slack、共感する方はよかったら入ってください(宣伝もするしたたかさw)
同様の課題は、私の運営するR&D Slackもにあって、メンバーで発言している人は2〜3割で、残りの人たちは様子見している感じ。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
せっかく良い人たちが揃っているので、フル活用していただけると良いと思うのだけど、遠慮しちゃうのか、「今の自分じゃまだ早い><」と思っちゃうのか…。
あるいは、やっぱり運営者の私の発言数が多いので、どうしても私の色がついちゃってるもんで、「このエマ色がなんか抵抗ある・・・」という人もきっといるよね。そこはすみませんorz
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
でも個人的には「エマ色なんざ、俺の色で全部塗りつぶしてやる!」くらいの勢いで発言する人が出てくれると幸せ。
でも結局は、人にどう思われるか、人にどんな印象を与えうるのか、は重要ですよね。うん。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
ここらへんの気配りは正直苦手だけど、皆様との良い関係あっての活動であるので、試行錯誤を続けていくしかない…。
そろそろ本題に
ようやく本題に入っていきます。
ちなみに、私の恩師はCG研究の指導でメチャクチャ厳しかった。マサカリとかそんなレベルじゃなかった。でもそれおかげで今の自分がいる。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
また他の方で、研究分野で今ノリにノッている方曰く
「子供が相手なら『褒めて育てろ』はわかる。だが大学生以上の大人なら基本マサカリで鍛えるのが普通だ」
また、その方は
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
「マサカリで負傷した位でその分野を諦めるなら、そもそもそいつは見込みないから、諦めて正解」とも仰っていた。
まぁそこは議論分かれますね^^;
例えば、将棋や囲碁の世界で、習いたての人を上級者がいきなりフルボッコしたら、そりゃ続けたくなくなりますもんね^^;
なので、この手の話は難しくて人による価値観・人生観とかも入ってきてしまい、正直正解がないと思うのだけど、
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
大抵、技術屋さんの上級者は、大多数はマサカリも投げるけど、その後のフォローもするし、決して悪気があるわけではないんだな。
多分、技術屋&研究者のガチ勢は、「曖昧さが気になってしまう」とか「パブリック資料として出されるなら、最低限ここは抑えておいてほしい」というプロ意識やアカデミック的な公共心から、つい言ってしまうのだ。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
悪気からじゃないのだ。性質なのだ。初心者の心を挫くためにやってるんじゃないのだ。
実際それで初心の方がショック受けたり気を悪くして、その分野を諦めてしまったら、それは残念な結果なわけだけど、
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
そうした問題は、上級者がもう少し伝え方を工夫するとか、社会的に「マサカリは怖くない。成長のきっかけ」という文化を醸成するとか、そういう方向性で解決が図られるべきだと思う。
で、さらにここまで言うとこの一連のツイートがエアリプライであることが発覚してしまいすみませんorzなのじゃがw
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
こうした上級者からの『おせっかいかもしれないけどポジティブなマサカリ』をなんでも『正しさハラスメント』と名付けて封殺して問題回避する風潮になるのは、なんか違うと思うの。
両者、歩み寄ってコミュニケーションの仕方を模索する方向の方が、
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
「野暮なこと言うべからず」で言えない雰囲気とかタブー的なものを世の中に作り出すより良いかなっと思うー(:3」∠)
『正しさハラスメント』について私が言いたかった意見を、この2つの記事が見事に代弁してくれていたので紹介します。https://t.co/PG3FMrlnHEhttps://t.co/Abr01n4pa5
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
私の感覚は異質なものではなかった、ということが確認できてホッとしました。
念のために言いますが、『正しさハラスメント』の元記事を支持したり共感した、という人をディスる気持ちは全くないんです。元記事の「初心者の心を挫くな」とか「物事には教えてあげる適切なタイミングがある」って部分は私も理解できるので。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
ただ
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
「技術的正しさを突き詰めること」や
「パブリックな資料になる物の、間違いを指摘すること」
が憚られる雰囲気が世の中に醸成されてしまうのは、全体にとって将来確実に不利益になるはずなので、それはやめましょ。ってことですね。
元記事書かれた人をはじめ、日本人全般に言えることだけど、ポジティブな意味での「指摘」や「議論」すら、「心の負担」として認識してしまう人が、この国にはあまりにも多い。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
まぁ気質だからしょうがない部分はありますが、少なくとも世界的にはかなり異質ですし、競争上は圧倒的に不利と言えます。
正直私もディベートは苦手です。でもここははっきり言っておきたい。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
技術や研究での議論はそうした「相手を論理的に打ち負かす」ような議論ではなく、あくまで「(技術や理論の)正しさを追求する」議論なのです。
(ただし「どのエディタが至高か」みたいな宗教論争は除きますw)
「相手の論説が間違っていて、それを否定する」ことはありえますが、それも別に相手の人格を攻撃するのが目的ではありません。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
(ただ、つい熱が入ってしまい、言葉が荒くなってしまうことは人である以上あります。それは各自、自戒が必要ですね^^;)
あくまで「正しさを追求する」ためです。
多分、あの元記事を読んで、多くの技術者・研究者の方が憂いたのは、
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
そうした「正しさを追求するためのポジティブな議論」すら、避けたり嫌悪したり、負担に感じたり、「空気読んでそういうのやめて」という人が、この国には多い、という事実に対してではないでしょうか。
徐々に「日本人とは」みたいな話に……w
おそらく、背景としては
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
日本人って、議論が白熱して物別れに終わると、まず間違いなく互いに感情的にしこりを残しちゃうんだよね。
「論理の戦い」と「感情的な戦い」を混同してしまう。
テレビ討論とか見ていると、よくわかりますよね。大抵途中から感情的な「なじり合い」とか軽蔑とかに発展する
海外の人がみんな完全ロジカルとは思わないけど、
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
少なくとも日本人よりは「論理合戦はドライ」で、その後しこりを残すことは少ないんじゃないかと思う。
日本人が何でもかんでも(ポジティブな目的のものすら)「議論」や「指摘」を自粛したり、「空気読んでやめろ」ということを求めてしまうのは、
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
これらの行為に「感情の応酬」が入り込んでしまうのを、無意識的に理解していて、それを恐れているから、なのではないかと思う。多分間違いない。
世界的に、グローバル化に全く歯止めがかからず、どんどんフラット化していく中で、
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月30日
日本人のそういう気質による「議論ベタ」は、競争上ぜったい不利になると思う。
それどころか、「議論自体避ける」というのが海外の場では意味不明だから、意図の疎通すら満足にできないケースもあるんじゃまいか。
で、話題はQiitaに移る
Qiitaにおけるマサカリの意義について、つぶやきました。
話むし返すけど、皆さんは「技術的なマサカリ」を恐れたり「うぜー!」と思う方ですか?
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月31日
私は「マサカリ食らうの大好き」です。むしろ「マサカリが飛んでこないと不安」にすらなります。
(ドM的な意味ではないよ!w)
なぜなら、自分の記事が「まだ検証されきっていない状態」と感じるからです。
もちろん、記事を出す時点で、自力でできる限りの内容チェックは必要です。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月31日
(自分でできる範囲の内容チェックを人にやらせるべきではありません)
ただ、人は完璧ではないので、どうしても調べきれない、検証しきれないことは出てきます。
論文などでまだ確証が持てないことを書くのはもちろんNGです。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月31日
でも、Qiita記事なら(注意書きはもちろん必要ですが)全然OKだと思います。
Qiitaはそういう良い意味での「ゆるさ」が魅力です。
もしQiitaの投稿に論文並みのハードルがあったら、殆どの人は投稿しないでしょうw
「投稿する内容に完璧さが求められないこと」で、今Qiitaなどは多くの意欲的なエンジニアの投稿で賑わっているわけです。それ自体は、良いことだと思います。
— エマ・デュランダル (@emadurandal) 2016年12月31日
しかし、「投稿時点では内容は完璧ではない」からこそ、投稿者は「ポジティブなマサカリ」を受け入れるべきなのです。ここは超重要。
なんか自分のツイート発言をQiitaで晒すとか…
どんだけ自意識過剰なんだよ、という見方もできますなー _(:3」∠)_
でも、そういう批判を恐れていたら、何もできないので。
過程はどうあれ、自己主張や議論の後で、結果として互いに得るものがあった、学びがあった、というグッドエンドに至れるのが最良だと思っています。
日本人はどうしても遠慮がちに、そして空気読めよ空気読まなきゃ的になってしまいますが、私個人の思いとしては、日本人のそうした気質は良い面もありますが、少なくともエンジニアリングの観点からは、機会損失の方がずっと大きいと感じています。
どんどんポジティブな意味で互いに叩き合って、結果、後々の人たちのために良いアウトプットをインターネット上に残していけるなら、それが一番じゃないでしょうか。
余談、なんで日本人は議論が下手(?) なのか
いろいろ思うんですけど、私としてはこんな感じに考えています。
- この日本人の気質は、島国であり、かつて単民族の農耕国家であったことから、言いたいことをいちいち明文化せずとも阿吽の呼吸で意図が伝わり、村の秩序を守るために相互監視を含む感情を含めた自治があったから
- 対して、欧州や米国などの国々は、昔から異文化の民族同士の流動性が高く、正確に誤解なく自分たちの意図を相手に伝えるためには、思考を明文化して論理でやり取りをしないと物事がうまく運ばないという必要性・必然性があった。そのために議論慣れしてきたのでは?
私の勝手な推測なので、もちろん推測外れかもしれませんが。どうなんでしょうねー?
何かの本で読みましたが、こんな言葉があるそうです。
「1000人の日本人を従えるより、5人のアメリカ人を従える方が難しい。5人のアメリカ人を従えるより、1人のユダヤ人を従える方が難しい」 1
なんか、日本人完全に侮られてますねw 誇張もあるのでしょうけど、でも、確かにそうなのかもしれません。
日本人は、ディベートの練習をするということは、大学などで専門の過程を取らない限りまずありません。
ディベートは「論理で相手を論破する戦い」ですが、争うのがそもそも苦手な日本人は多いでしょう。そういう気質があるとしたら、それはやむをえない面はあります。ディベートして勝った負けたがあったとしても、人格を否定しあったわけではないのですから、気にしなければいいんですが、それでも気にしてしまうのが日本人なのかもしれません。
ただ、このQiita記事で長々と言ってきたのは、「相手を論理で打ち負かす」議論ですらなく、「技術的正しさを(優しく)指摘する」議論ですら、タブー視しようとする動きに対する危惧なのです。
仮にその分野での初心者だとしても、エンジニアをやっている者であれば、それを負担に感じないくらいの最低限の心の強さ・柔軟性は保ちたいものです。
と言うより、エンジニアであれば、指摘を受けることで新しい知見が手に入るのであれば、「嬉しい」と感じませんか? むしろ「こいつうぜー!」とか「恥かかせやがって」と感じるタイプですか?
人それぞれ、かもしれませんが。エンジニア・研究者を目指す者であれば、できればみんな前者であってほしい。
これもまた、一つの価値観の押し付けになっちゃうのかもしれませんが、私個人の願いとしては、そんな風に思っています。
で、今日大晦日ですがw
まぁ、新年明けまして早々にこんな記事を公開するよりは、2016年中に大掃除的な意味で大晦日に公開した方がいいですよね。ってことで、多少構成が荒いですが、見切り発車でこのQiita記事を公開します。
なんにせよ、この話題の発端の元記事を書かれた方も、こうしたいろいろな意見・反応を喚起したという意味では、良い議論のきっかけを作ってくださった、という見方もできるかもしれません。
私も、一連の自分の発言で、誰一人として傷つける意図はありません。ポジティブに自由闊達に話し合い、意見を出し合って、「なるほど、そういう考え方もあるのね」とか「なるほど、あなたの指摘の方が技術的に正しいですね。指摘してくださってありがとう!」という感じで、互いに得るものがあればそれでいいじゃありませんか。
という感じで、指摘・議論を遠慮しあうより、むしろ推奨することで、風通しの良いエンジニア文化が国内にできてくれればと思います。
そろそろ良い感じでまとめになったみたいですね。俺ナイスw←
ではでは、皆様も良いお年をお迎えください( ^ ^ )/ そして、2017年もよろしくね!
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ユダヤ人、と聞くと「迫害された人たち」というイメージが強いですが、実際は非常にロジカルであり、ディベートするととても勝てないような手強い人たちが多い、のだそうです。いや、私も物の本でそう読んだだけで、実際に交流したことはないですけど……。 ↩